蒲生氏郷は秀吉の下で数々の功績をあげる。秀吉の天下統一の南の最大の強敵島津氏に対して、攻撃を氏郷に命じた。厳石城(がんじゃくじょう)の合戦である。その城を落としてから3年後には、秀吉が伊達氏から取り上げた領地の会津に移されることになった。松阪十二万石から会津四十二万石である、出世と見られている、が氏郷は本当は国替えをしたくはなかった。
都から遠くの奥州に移ることは、「秀吉の天下統一」の中枢からはずれる意味であり、田舎に押し込められることを意味している。当時奥州の南の位置にある会津は「北の勢力の南下の抑え」だけである。徳川家康と伊達氏の間に氏郷を置くことは秀吉の戦略である。