歴史5「1846年」 | 田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

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青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

「カリフォルニアの始まり」
【米墨戦争(べいぼくせんそう、Mexican-American War)は、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ(墨西哥)の間で戦われた戦争。
アメリカではメキシコ戦争 (Mexican War) として知られている。メキシコでは、アメリカのメキシコ侵略 (North American Invasion of Mexico) 、アメリカの対メキシコ戦争 (United States War Against Mexico)

スペイン語では北米の武力干渉 (Guerra de Intervención Norteamericana) という。日本ではアメリカ・メキシコ戦争とも言われる。
米墨戦争はテキサスの所属をめぐっての、アメリカとメキシコとの衝突に起因する。

スペインの植民地支配から独立革命を経て独立したメキシコは、第1次メキシコ帝国と共和国の時代を通じて、メキシコ北部の領地一帯を保持していた。しかし16世紀から続くネイティブアメリカンの群発する反乱は継続しており、また1803年のルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやすくなった多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入していた。

長期戦になった独立革命で弱体化したメキシコには、北方の領地を統治する余裕が人的にも金銭的にもなかった。

アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによる中央集権体制は、メキシコ各地での反発を招き、各地で独立の機運が発生した。1836年、テキサス共和国はメキシコからの独立を宣言した。1845年に、テキサス共和国はアメリカに併合された。しかし、メキシコ政府はまだアメリカ合衆国のテキサス併合はおろか、テキサス共和国独立に関してもその条約(ベラスコ条約)締結の経緯が不公正なものであるとして認めていなかった。さらに以前より、テキサス併合は戦争を招く、と折に触れてアメリカ合衆国へ警告し続けていた。

アメリカはこの地域での英国の野心を断ち切るために、太平洋岸のカリフォルニアに自国の港を持ちたかった。このためテキサス併合と同じ年、メキシコ領カリフォルニアおよびニューメキシコを購入したいと申し出た。
しかし当時メキシコ国内は混乱が続いており、例えば1846年一年間だけで大統領は4回、戦争大臣は6回、財務大臣にいたっては16回の交代が行われ、交渉団を迎え入れたホセ・ホアキン・デ・エレーラ大統領は反逆罪で訴えられ追放されるなど、交渉どころではなかった。また、メキシコ世論も買収申し出に猛反発した。そして、マリアノ・パレーデス・アリリャガ大統領のもと、より国家主義的色合いの強い政府が成立したのを見届け、交渉団は引き揚げた。

テキサスを併合したアメリカは、メキシコとの国境をリオグランデ川 (Rio Grande) 以北としていた。一方メキシコは同様にリオグランデ川の北側を流れるヌエセス川 (Nueses River) 以南としており、両国の主張には相違があった。時のアメリカ大統領ジェームズ・ポークは、アメリカの主張するテキサス州の土地を確保するよう軍に命じた。これを受けたザカリー・テイラー将軍の率いる軍隊は、ヌエセス川を南に超えて、メキシコの非難にも関わらずブラウン砦 (Fort Brown) を築いた。1846年4月24日にメキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘状態となった。パロアルト (Palo Alto) およびレサカ・デ・ラ・パルマ (Resaca De La Palma) での国境衝突および戦闘の後に、連邦議会は5月13日に宣戦を布告した。南部出身者と民主党がそれを支持した。一方北部出身者とホイッグ党員は一般に、戦争の宣言に反対した。メキシコは5月23日に宣戦を布告した。

アメリカの宣戦布告後、アメリカ軍はロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領した。モンテレーの戦いは1846年の9月に起こった。1847年2月22日、ブエナ・ビスタの戦いでテイラー将軍がアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍配下のメキシコ軍を破り、アルタ・カリフォルニアとニューメキシコの占領を確実なものにした。ウィンフィールド・スコット将軍配下のアメリカ軍は、海上からベラクルス(大西洋岸)を攻略、引き続きセロゴルド(メキシコ中部)と進撃し、メキシコの中心部チャプルテペック城(メキシコシティ)も攻め落とした。(進撃は3月9日に始められた)

1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了した。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えた。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払った。

このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになる。 】・・以上ウィキペディアより

タッコ
1846年(弘化三年)
http://www.japanusencounters.net/index.html日米交流史サイトよりアメリカ政府の日本開国へ向けた使節の派遣、すなわちエドモンド・ロバーツによる1832年
 、1835年の試み、そしてケーレブ・カッシングによる1844年の試みなど、通商拡大を目指した日本への開国使 節派遣については前章の最後に書いた。特にその後を受けて、支那へのアメリカ公使、アレクザンダー・エヴェレットの要請で1846(弘化3)年7月20日浦賀に来たビドル提督は、浦賀奉行を通じ江戸幕府に日本の開国意志を問い合わせた。鎖国中の幕府は、その意志のないことをはっきりビドル提督に伝えた。

http://www.osaka-ue.ac.jp/gakkai/pdf/ronshu/2005/5601_trans_nakagawa.pdf中川操氏より
同じ1854年の秋頃までには,「ポリネシアン」紙の日本に関する記事は爆発的に増加し始めた。その要因となったのは, アメリカ海軍の軍艦「コロンブス」号が同年9月に, ホノルルの港に入港したことである。大砲を100門も装備した 「コロンブス」 号は, ハワイ諸島に入港した中での最大の軍艦であった。3週間もの間, アメリカ東インド艦隊提督のジェームズビドル(Commodore James Biddle) と大勢の部下の乗組員たちは, ホノルルで大歓迎を受けた。軍艦の乗組員全員は, その年の7月に, 日本への途方もない航海をした帰りのホノルル寄港であった。ビドル提督は, 日米両国の親善関係を開くために, 米国大統領の親書を日本の天皇に手渡すために, 日本に赴いたのであった。捕鯨船 「マンハッタン」 号のように, 「コロンブス」 号は (一緒に航行していた 「バンサンヌ」 号はホノルルには寄港しなかったが), 日本の首都, 江戸に向かって, 江戸湾の入口に航行していた。ビドル提督の軍艦は, 直前に中国に寄港したばかりであった。その時期は, 丁度, イギリスが, 中国を屈辱的にやっけた直後だったが, アメリカは, 中国との条約を提携することに成功していた。もし, 日本が,中国と並んで, 港を開くことになれば, アメリカが, 日本との通商条約を結ぶことができるかどうか, を確かめることが, ビドル提督に課せられた命令であった。その際, 日本がアメリカに無用な敵意や不信感を抱かないように, 特に注意して, 仕事を進めるように命じられていた。ビドル提督にとって幸いだったのは, 丁度この時, 日本政府は, 鎖国令を緩め始めようとしていた時であったことである。沿岸の大砲は, 外国の訪問者に向かって,もはや火を吹かなかった。日本の役人たちは, 江戸湾の入口まで出向いて, ビドル提督を迎えた。役人たちは, 堀井辰之助という通辞を伴って迎えたものの, 当時の日本には, どこを探しても, 英語のできる通辞はいなかったので, 堀井はアメリカ側のいくつもの要求を訳すのに, 恐ろしいほどの時間を費やした。
・・・江戸幕府に開国をせまるアメリカの内部事情がわかってきた。
叫び