アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。
アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので、通常はこれに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を望んでいた。
それに比べ、北部では米英戦争(1812年 - 1814年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制に対する態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。しかもこの対立は、アメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。
それは財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナ・テリトリーを購入した事と、メキシコから「独立」したテキサス共和国とカリフォルニア共和国をアメリカ合衆国に加えた事である。このことは、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れる事を意味した。
この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。しかも南部のこの人口は、約400万もいた奴隷の人口を含めての数字である。
南北戦争については次のような対立軸が考えられる。
奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
アラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。
結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。】・・以上ウィキペディアより
このことで江戸幕府崩壊が始まった。世界情勢は関連付けてみないと、あやまったヒーロー観で坂本龍馬をつくりあげてしまう。この流れは「田子の国際交流」とどう関係があるんじゃあ?といわれれば無理やりこじつけてみます。
