馬車は何処へ向かうか?(エニアグラムの行く先) | エニアグラムと哲学のTakkme

エニアグラムと哲学のTakkme

◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

グルジェフは地球人類を三脳(3センター)生物と呼び、
これを馬車に例えている。






               
                
車が本能(身体)
それを引っ張る馬が感情
馬と馬車を操る運転手が思考、というわけである。

まず、車(本能/肉体)について、

「車というものをついぞ理解したためしがなく、
 したがって一度もまともに掃除もしたことがない運転手の
 なすがままにされている。
 さらに、この車は道中の揺れやショックで、つまり動くことで、
 その各部に自動的に潤滑油が注がれるよう設計されているが、
 昨今の舗装の行き届いた高速道路では、
 その種の潤滑装置ではまず役に立ちそうにない。」


かたや馬(感情)は、

「全く運転手の言葉や合図を理解できず、
 さらに悪いことには、
 一度もまともな調教といえるものを受けたことがなく、
 いつも鞭打たれるだけでひどく虐待されて育てられてきた。
 その上いつもつながれたままだった。
 そして飼料にはカラス麦や干し草のかわりに、
 実際の必要にそぐわないワラだけを与えられていた。
 愛情や親しみを受けたことは一切なく、
 ほんの少しでも世話をしてくれる人であれば、
 誰であれすぐにでも身を任せようという気になっている」


はたまた運転手(思考)は、

「運転手は運転手で運転台にぼんやりと腰をかけて、
 料金を払う客なら(あまり面倒にならない限り)
 どこへでも行こうと待ち構えている。
 料金以外にチップをはずんでくれるならなおさらのこと、、」


グルジェフ独特のウイットに富んだブラックな例えだ。

問題はもう一人、馬車の中の<客人>である。
この客人が「私」である。
この「私」が<主人>でなければならないのだが、
グルジェフによればそうはいかない。

<私>はこの客人を唯一の自分だと思っているが、
上記の馬や運転手の話にあるように、
残念ながらくるくるとこの客人は乗り代わる。
まるでタクシーだ。
これがグルジェフのいう複数の<私>である。


「複数の<私>が支配権を握ろうと終始闘いを続け、
 また事実それは交替しているのだが、
 それは偶発的な外部の影響に左右されている。
 暖かさ、陽光、いい天気などは、
 複数の<私>のあるグループを呼び出す。
 寒さ、霧、雨などは別のグループ、
 別の連想や感情や行動を呼び出すのだ。
 
 もちろん強い<私>も弱い<私>もある。
 しかしそれは、それ自身の意識的な強さではなく、
 偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものにすぎない。

 教育、模倣、読書、宗教的魅力、階級、伝統、
 新しいスローガンの魔力などは、
 非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、
 それらは他の弱い<私>を支配する。

 しかしその強さは、センター(コア)の中の
 <記録装置>の強さなのだ。
 そして人間の性格を形成しているすべての<私>は
 この<記録装置>と同じ起源を持っている。
 つまりそれは外部の影響の結果なのだ。

 人間は個体性を持ってはいない。
 彼は単一の、大きな<私>を持っていないのだ。
 人間は多数の小さな<私>に分割されているのだ。」


ボクはこの「記録装置」をトラウマと理解している。

残念ながら<私>はこのような分裂状態にあるため、

「ある<私>は、別の<私>がした約束や決意に対して、
 どんな責任も取ることが出来ない。
 自分にとっても他人にとっても全くあてにならない。
 したがって、私はどんな決断も下すことが出来ず、
 どんな約束もすることが出来ない。
 そのために、本質的な価値のあるなにごとも達成できない 」



そんなこたあねえよ、とおっしゃる向きもあるかもしれない。
グルジェフはここで分かりやすい事例をひいている。

「ある人が翌朝から早く起きようと決心したとしよう。
 一つの<私>、あるいは複数の<私>のグループがこれを決心する。
 ところがいざ起床するのは、この決定に真っ向から反対しているか、
 この決定を全く何も知らない<私>の仕事ときている。
 当然この人はいつものように朝寝坊するだろう。
 そして夜にはまた早起きを決意するのだ。」


さらに、(苦笑)

「場合によっては、これは人間にとって非常に不愉快な結論を
 仮定することになるかもしれない。
 小さな偶発的な<私>が、ある瞬間に、
 単なる虚栄あるいは楽しみのために、
 他の自分と何かの約束をする。
 その後、その<私>は消えてしまうが、
 人間、つまりそのことには全く責任のない
 他の<私>の複合体である人間が、
 一生その尻拭いをしなければならないということも起こりえる。


やっかいなことに、
 
 どんな小さな<私>にも小切手や約束手形を振り出す権利があり、
 人間、つまり全体である人間が、
 それを支払わなければならないというのは、人間の悲劇である。
 人々の生活全体が、しばしばこの偶発的な小さな<私>の
 約束手形の支払いに振り回されているのだ。」


悲しいことにはボクもこの尻拭いの常に最中(人生)である。
グルジェフは、厳しいのでこの逆説的なことは言わないが、
人間の可能性もここにこそあると思う。

ダイエットを決意するのはたしかに小さい<私>である。
だが、何度もこれに挑戦しようとする。
グルジェフにならって正確に言えば、
「何度も挑戦する」という機械的に出現する小さい<私>を
何とか克服出来ないかと大きい<私>へと統合できないものかと苦悶する。
動物にはダイエットを決意することすら出来ないことだ。
(野生動物には必要もないからだが)

人間と動物の違いはこの「意志の創造」にある。
もちろんこれは優劣を言っているのではない。
優劣で言えば、なぜ、動物に比べ人間がこんなに分裂しやすく、
つまり傷つきやすく出来ているのか。
そしてその反動(トラウマ)の巨大さゆえ地球を滅ぼしかねない事態だ。
これは人間の天命と名付けてもよい事態なのではないか。


人間は人間であろうとするためにダイエットを決意する。
(もちろん力士になるために過食を決意するのでもいい)
自分探しは常に自分の足下にあるに違いない。




さて、
またタイプ1らしく立派なこと言って!
実は軟弱なタクミ君、



意志(=主人)の創造だって?
そんなこと可能なのかね?



この馬車はいったい何処へ向かうのかね?