これを馬車に例えている。

車が本能(身体)、
それを引っ張る馬が感情、
馬と馬車を操る運転手が思考、というわけである。
まず、車(本能/肉体)について、
「車というものをついぞ理解したためしがなく、
したがって一度もまともに掃除もしたことがない運転手の
なすがままにされている。
さらに、この車は道中の揺れやショックで、つまり動くことで、
その各部に自動的に潤滑油が注がれるよう設計されているが、
昨今の舗装の行き届いた高速道路では、
その種の潤滑装置ではまず役に立ちそうにない。」
かたや馬(感情)は、
「全く運転手の言葉や合図を理解できず、
さらに悪いことには、
一度もまともな調教といえるものを受けたことがなく、
いつも鞭打たれるだけでひどく虐待されて育てられてきた。
その上いつもつながれたままだった。
そして飼料にはカラス麦や干し草のかわりに、
実際の必要にそぐわないワラだけを与えられていた。
愛情や親しみを受けたことは一切なく、
ほんの少しでも世話をしてくれる人であれば、
誰であれすぐにでも身を任せようという気になっている」
はたまた運転手(思考)は、
「運転手は運転手で運転台にぼんやりと腰をかけて、
料金を払う客なら(あまり面倒にならない限り)
どこへでも行こうと待ち構えている。
料金以外にチップをはずんでくれるならなおさらのこと、、」
グルジェフ独特のウイットに富んだブラックな例えだ。
問題はもう一人、馬車の中の<客人>である。
この客人が「私」である。
この「私」が<主人>でなければならないのだが、
グルジェフによればそうはいかない。
<私>はこの客人を唯一の自分だと思っているが、
上記の馬や運転手の話にあるように、
残念ながらくるくるとこの客人は乗り代わる。
まるでタクシーだ。
これがグルジェフのいう複数の<私>である。
「複数の<私>が支配権を握ろうと終始闘いを続け、
また事実それは交替しているのだが、
それは偶発的な外部の影響に左右されている。
暖かさ、陽光、いい天気などは、
複数の<私>のあるグループを呼び出す。
寒さ、霧、雨などは別のグループ、
別の連想や感情や行動を呼び出すのだ。
もちろん強い<私>も弱い<私>もある。
しかしそれは、それ自身の意識的な強さではなく、
偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものにすぎない。
教育、模倣、読書、宗教的魅力、階級、伝統、
新しいスローガンの魔力などは、
非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、
それらは他の弱い<私>を支配する。
しかしその強さは、センター(コア)の中の
<記録装置>の強さなのだ。
そして人間の性格を形成しているすべての<私>は
この<記録装置>と同じ起源を持っている。
つまりそれは外部の影響の結果なのだ。
人間は個体性を持ってはいない。
彼は単一の、大きな<私>を持っていないのだ。
人間は多数の小さな<私>に分割されているのだ。」
ボクはこの「記録装置」をトラウマと理解している。
残念ながら<私>はこのような分裂状態にあるため、
「ある<私>は、別の<私>がした約束や決意に対して、
どんな責任も取ることが出来ない。
自分にとっても他人にとっても全くあてにならない。
したがって、私はどんな決断も下すことが出来ず、
どんな約束もすることが出来ない。
そのために、本質的な価値のあるなにごとも達成できない 」
そんなこたあねえよ、とおっしゃる向きもあるかもしれない。
グルジェフはここで分かりやすい事例をひいている。
「ある人が翌朝から早く起きようと決心したとしよう。
一つの<私>、あるいは複数の<私>のグループがこれを決心する。
ところがいざ起床するのは、この決定に真っ向から反対しているか、
この決定を全く何も知らない<私>の仕事ときている。
当然この人はいつものように朝寝坊するだろう。
そして夜にはまた早起きを決意するのだ。」
さらに、(苦笑)
「場合によっては、これは人間にとって非常に不愉快な結論を
仮定することになるかもしれない。
小さな偶発的な<私>が、ある瞬間に、
単なる虚栄あるいは楽しみのために、
他の自分と何かの約束をする。
その後、その<私>は消えてしまうが、
人間、つまりそのことには全く責任のない
他の<私>の複合体である人間が、
一生その尻拭いをしなければならないということも起こりえる。
やっかいなことに、
どんな小さな<私>にも小切手や約束手形を振り出す権利があり、
人間、つまり全体である人間が、
それを支払わなければならないというのは、人間の悲劇である。
人々の生活全体が、しばしばこの偶発的な小さな<私>の
約束手形の支払いに振り回されているのだ。」
悲しいことにはボクもこの尻拭いの常に最中(人生)である。
グルジェフは、厳しいのでこの逆説的なことは言わないが、
人間の可能性もここにこそあると思う。
ダイエットを決意するのはたしかに小さい<私>である。
だが、何度もこれに挑戦しようとする。
グルジェフにならって正確に言えば、
「何度も挑戦する」という機械的に出現する小さい<私>を
何とか克服出来ないかと大きい<私>へと統合できないものかと苦悶する。
動物にはダイエットを決意することすら出来ないことだ。
(野生動物には必要もないからだが)
人間と動物の違いはこの「意志の創造」にある。
もちろんこれは優劣を言っているのではない。
優劣で言えば、なぜ、動物に比べ人間がこんなに分裂しやすく、
つまり傷つきやすく出来ているのか。
そしてその反動(トラウマ)の巨大さゆえ地球を滅ぼしかねない事態だ。
これは人間の天命と名付けてもよい事態なのではないか。
人間は人間であろうとするためにダイエットを決意する。
(もちろん力士になるために過食を決意するのでもいい)
自分探しは常に自分の足下にあるに違いない。
さて、
またタイプ1らしく立派なこと言って!
実は軟弱なタクミ君、
意志(=主人)の創造だって?
そんなこと可能なのかね?
この馬車はいったい何処へ向かうのかね?