さて、この前のブログで、私は政治家に自分の言葉で語り書けてほしい、といったのだけど、
そう思ったらあることを思い出した。
20世紀の前半に、情熱的に自分の言葉で語り、瞬く間に聴衆の心をつかみ、大政治家になった男がいたのだ。
「大衆に情熱を込めて語ったのは彼だけでした。私たちはなにか新しいことを聞くために、なんでもいいから新しいことを聞くために集会に出掛けたのです。ドイツ国内の状況は悪化する一方でした。人々の日常生活をささえていたものが根底からなくなり、自殺する人が溢れ、風俗は乱れました。経済状況に絶望していた私たちには、ヒトラーが語る新しいドイツは素晴らしいものに思えました」
「私の父がナチスについて語るとき、その言葉に誇りや感激がなく、それどころか、ひどく不機嫌な響きがあることが理解できませんでした。父は『連中の言うことを信じるな。連中は狼だ。ナチスはドイツ国民を恐ろしい形で誘惑しているのだ』というのです。しかし、父の言葉は興奮した我々若者の耳には入りませんでした」
(NHK「映像の世紀 第4集ヒトラーの野望~人々はナチスに未来を託した~」より)
その男の名はアドルフ・ヒトラー。
ワイマール共和国末期のの無気力、無力感から大衆を救う男。選挙で、合法的に独裁者となった男がもたらしたものを考えれば、人類が最初の原爆を受けた日のスピーチに、「原稿の糊がくっついてたから文章が隠れちゃって、意不明のスピーチになっちゃった」と、言う首相の後にどんな言葉を持つ人間が現れるかは、注意深くあらねばならない、と思う。
菅に絶望して、じゃあ枝野さん?
ざっと見回して既存の政治家から誰を選んだらいいのか困惑。
このさきとうすればよい?どうなるのか?
誰かを、何かを、待ち望む空気はもしかしたら危険かもしれない。
強い社会不安は明快で強いイデオロギーを受け容れやすいメンタリティを生む、と「全体主義の起源」の著者、アーレントも言っている。
今さら安倍だの菅だのや、日本すごい!と、強い言葉で語る人にうっとりするほどウブじゃあないさ、と、思っている人も、では、ほっとするような、普通の人 みたいな素朴な政治家が出てきたらどうだろう?案外コロッと丸め込まれたりして。何しろ悪い顔見すぎてるから普通の人がいい、と言うか、普通の人でいいというか、そういう華々しさもないけど毒も無さそうな人を望むかも。
でも、善人や弱者の顔をした悪魔もいるかもしれない。
そのように考えてくると、要は、政治家に自分の言葉で語ることを望む、と言うことは、国民も自分を語る言葉を持たねばならないのでは?と言うことかも。
この夏も色々な夏の特集番組があったが、そのなかのひとつで、今年92才のおばあちゃんが言っていた
「ただ漠然といきるの嫌やもん。
私は私なりの考えをちゃんと心に持っていたいのよ。
間違ってるかもわからへんけど最低私はこんないっぱい(何紙もの新聞)読んだり、聞いたりして『私はこうや』て思うことをしてきた。
そやないと戦時みたいに偉いさんが『わぁー』って言って『はい』言うてやってたらどないなるかわからへん。
世の中ってね、
ちゃんと見とかなあかんな思うて」
(NHKスペシャル「銃後の女たち~戦争にのめり込んだ普通の人々~」より)
どうだろう。
ちゃんと見てますか?