最近、テレビを見ていて気になることがある。それは、所謂「ら抜き言葉」を使う人が多いということだ。
特に頻繁にテレビで目にしたのはオリンピック前である。オリンピックに出ることが決まった多くのアスリート達が、「出れて嬉しい」と言っていた。本人は「ら抜き言葉」だと気づかないで使っているようだ。ところが、テレビ画面では「出られて嬉しい」と正しい日本語の字幕が表示されている。「ら抜き言葉」はまずいと思ってテレビ局で直したのだろう。「その日本語はおかしいよ」と誰か注意する人はいないのだろうか。テレビを見ていると、この「ら抜き言葉」を正しい日本語に直して表示することが本当に多くなっている。
もうずいぶん前だが、巨匠と言われる映画監督の作品を観ていると、出演している若者が食事をしながら、「もう食べれない」という台詞を言ったのでビックリした。また最近、人気のある女性ミュージシャンの音楽CDを聞いていると、「寝れない」とか「見れたら」という歌詞があった。わざと「ら抜き言葉」の歌詞にしているのだろうか?先日もニュースと見ていると、インタビューに答えている高校生が、「感じれた」と言っていた。これもテレビ画面では「感じられた」という正しい日本語に直して表示していた。
これらは全て可能動詞を理解していないからである。可能動詞は中学生の時、国語の文法の授業で習うはずだ。文法は少々面倒くさいところがあるので、最近ではあまり教えていないのだろうか?
少し可能動詞を説明すると、「できる」という可能の意味を持つ動詞で、五段活用の動詞が下一段活用に変わってできたものである。つまり、五段活用の動詞しか可能動詞にはならない。五段活用というのは、「ナイ」という言葉を付けて、活用語尾の音が「ア段の音」になるものだ。「イ段の音」なら上一段活用、「エ段の音」なら下一段活用となる。(その他、「来る」のカ行変格活用や「する」のサ行変格活用もある)
上記に記した元の動詞は、「食べる」「寝る」「見る」「感じる」である。「ナイ」を付けると、「食べナイ」(下一段活用)、「寝ナイ」(下一段活用)、「見ナイ」(上一段活用)、「感じナイ」(上一段活用)となり、五段活用ではない。よって、可能動詞にはならない。
勿論、これらの動詞に可能の意味を付けることができる。それは助動詞の「れる・られる」を使えばいいだけのことである。助動詞「れる・られる」には「受け身、可能、自発、尊敬」の働きがあり、その中の「可能」の用法を使う。上記の動詞なら「食べられる」「寝られる」「見られる」「感じられる」となり、「ら」を付ければいいだけのことだ。これは動詞+助動詞であって可能動詞ではない。
アスリートには「オリンピックに出られて嬉しい」と言ってほしかった。巨匠の映画の台詞は「もう食べられない」と言ってほしかった。人気ミュージシャンには「寝られない」「見られたら」と歌ってほしかった。
テレビで「ら抜き言葉」を聞いて、文法的におかしいと思っている人がどれくらいいるのだろうか?そのうちに「ら抜き言葉」を使う人が多くなり、正しい日本語として認知される日が来るかもしれない。そうなったら、「ら抜き言葉」のまま画面に文字で表示されるのだろうか?
言葉は時の流れと共に変化していく運命にある。これから「ら抜き言葉」がどうなるのか分からない。しかし私は、今はまだ「ら抜き言葉」を使う気にはならない。可能動詞と動詞+助動詞の違いをしっかりと理解して言葉を使っていこうと思っている。