羽田雄一郎さん、回想 | 神奈川県会議員滝田孝徳オフィシャルブログ「ノーブレス・オブリージュ」Powered by Ameba

羽田雄一郎さん、回想

〜備忘録、個人的な回想としての羽田雄一郎さん〜

羽田雄一郎参議院議員がお亡くなりになられたとの一報を親しい県会議員から聞き衝撃を受けている。

20代の頃、私は鳩山由紀夫先生の秘書、羽田雄一郎さんは羽田孜元総理の秘書だった。

鳩山先生が羽田孜先生と一緒の会合が多く、必然的に雄一郎さんとは毎日のように顔を合わせていた時期があった。

現場は、鳩山事務所は私のみの体制、羽田事務所は2人体制だった。

朝5時起きで深夜まで、土日祝日は緩やかになるものの基本的には働く修業時代、会合がいつ終わるのか分からず、
眠い目を擦りながら気合いで起きて車にいると『タッキー、休まないで働いてるの知ってるよ、寝てな、由紀夫さんが出てきそうになったら必ず起こすから』といつも気を遣ってくれて、助けてくれた。

そんなある日、長野県において参議院議員の補欠選挙の候補者として雄一郎さんが決まり、直後にすぐ会う事となった。

『おめでとうございます』という私に『その件だけど、タッキー悪いけど一緒に戦ってくれないか?』という。

『もちろん何でも。ただ、器用じゃないので何ができますかね・・・』

『すぐ選挙区へ入るけど終わるまで俺に随行して欲しいんだ。色々頼む事があるから手伝ってよ』

『随行は気が合う人じゃないと。だから、タッキーが適任。もちろん由紀夫先生の許可は必要だろうけど、タッキーがよければ、由紀夫先生には親父から話してもらうから』と言う。

雄一郎さんにそこまで言ってもらえれば光栄以外の言葉はない。
『はい。分かりました。全力でやらせて頂きます』と答えた。

その日の夕刻、鳩山事務所の筆頭秘書から『代議士が了解した、長野に行くように』と電話があり、時期、仕事内容は羽田雄一郎さんの指示に従えとの事。

早速連絡を取ると、
『明日朝一で長野に行く。今日はうちに泊まってくれ。明日は一緒に出るぞ』
『はい。わかりました。』と答え、その夜羽田孜元総理の私邸に急遽泊まる事になった。

夜、到着すると羽田孜夫人が迎えてくれて『どうぞよろしくお願いします』と言ってくださった。

朝都内某所、始発に間に合う時間に起き、準備。『タッキー、さぁ行くぞ!』と声をかけられ2人だけで玄関を出て出発、最寄駅までテクテクと歩いた。

非常に印象的だったのは羽田家の方が誰も見送らなかったし、新幹線の駅まで車で送るような事もなかった事。

選挙に出る事は独り立ちをする事、また、選挙は誰かが助けてくれるものでなく、決意した本人が一人で戦う気持ちがないとダメ、という甘えが命取りになる政治の世界の厳しさを知る総理大臣を輩出された羽田家における長男・雄一郎さんへの無言の教えなのだろう。

だからこそ、羽田孜事務所で新幹線の駅まで車で送る人材はいくらでもいただろうけど、送る事はなかったのだろう。

父親と息子は違う、混同はしないという羽田孜先生、奥様のケジメをつけた対応であり、それができる羽田家の方々や、それを自然かつ当たり前のものとして何ら疑問を持つ様子のない雄一郎さんにある種の感動を覚えた。

それから約一か月、羽田雄一郎候補者とは寝る時以外は離れる事なく長野県内をご一緒させて頂いた。

上田、松本、長野、佐久、南木曽、上村、和田村、三水村、地名が今でも蘇る。

一か月間ずっと付き合った羽田雄一郎さんはどこまでも温厚な紳士だった。

体力的にキツい時も人に当たる事はなく、候補者である自分の事より常にこちらの事を気にかけてくれる人だった。

自分がおにぎりを食べれば『タッキーにもあげて』と周りの人にいい。
自分が飴を舐めれば『タッキーも好きなのとってよ』といい。
自分が水を飲めば『タッキーも好きなの飲みな、遠慮するなよ』と言ってくれた。

昼食後、私がいると休みにくいだろうから、さりげなく離れようとすると『何だよ逃げるなよ!眠たきゃタッキーいたって寝っから大丈夫だよ』と笑ってくれた。

接するだけで、ふんわりといつまでも温かい気持ちにさせる人だった。

投票日、開票を待つ間、気を遣い別部屋に行こうとする私を『一人にするなよ、一緒に戦ったんだから、最後までここで見届けろよ』と一緒に当選の瞬間を見届けさせてくれた。

『よし、行こうと』向かった選挙事務所は若き参議院議員誕生に大いに盛り上がっていた。

一通り挨拶をしてホテルの部屋に戻ると内線が鳴った。『大丈夫です。すぐ行きます』と答えた。

雄一郎さんの部屋に行くと
『この間ありがとう。タッキーは由紀夫先生のところへ戻ってしまうの?』と聞かれた。

戻るの?ではなく、戻ってしまうの?と言う聞き方だった、間違いなく。

当時はその意味がわからず『はい。他に戻る場所はないので。』と答えた。

『そっか、タッキーは川崎で次の統一地方選狙ってるんだよな。だったら由紀夫先生の所にいた方がいいよね』と。

雄一郎さんが何を思って問いかけてくれたのかは今となってはもうわからない。

鳩山事務所に戻った最初の日に筆頭秘書から『頑張ってたみたいだな。羽田さんの登院はいつだ?会館のカギを開けてくれと頼まれてないか?大丈夫なのか?』と言われたが、当時はあまりにも鈍くこれまた話してる意味がわからなかった。

議員になってしばらくしてから、
言外にもしかしたら含まれていたかもしれない意味に気がついた。

それは自分の勘違いかもしれないし、社交辞令を含んだ労いだったのかもしれないけど、数少ない秘書時代の誇れる事として取っておきたいと思う。

羽田雄一郎さん、
自分が嬉しかった時、どこかで聞きつけて自分が1番好きだという六本木のキャンティに連れて行ってくれてお祝いをしてくれた。

誰からも認められない孤独な時期に『あいつ頑張ってるよな』と色々なところで話してくれていた。

自分が選挙に向けて準備をする時、みんなに声をかけて送別会を開いてくれた。

下積みの苦労を理解でき、誰もが羨む育ちでありながら決してひけらかす事なく誰とでも対等に付き合う気持ちのある人だった。

羽田雄一郎さん、
鳩山由紀夫先生の秘書時代に頂いた様々な優しさ、いつまでも覚えてます。

ありがとうございました。

だけど、お悔やみはまだ言えない、現実として、まだ受け止める事ができないから。