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自分で仕事をするのではなく、仕事をさせる適材を見つけることが大切だ。 

チャンスに出会わない人間は一人もいない。それをチャンスにできなかっただけである

他人の利益を図らずして自ら栄えることができない。人は受けるより与えることの方がもっと幸せなのである。

成功するには、成功するまで決して諦めないことだ。

すべての成功、すべての巨富は、まずアイデアから始まる。

一番乗りは牡蠣を得るが、ニ番目の人は貝殻しか得られない。

小さく砕いて、一つずつ解決すれば、解決できない問題はない。

アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie, 1835年11月25日 - 1919年8月11日)は、スコットランド生まれ、アメリカ出身の実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収め「鋼鉄王」と称された(後に会社は売却され、合併してUSスチール社となる)。彼は、事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、今日でも慈善家としてよく知られている。また、ナポレオン・ヒル・プログラムの創始者、ナポレオン・ヒル博士に自身の成功哲学に基づく成功プログラム開発を発注したことでも有名である。

1835年、カーネギーはスコットランドのダンファームリンで手織り職人の長男として生まれた。当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年に両親はアメリカへの移住を決める。
 
アメリカへ移住した後、12歳のカーネギーは学校へ行かずに紡績工場で働く。その後、何度か転職し、ピッツバーグ電信局の電報配達の仕事に就く。当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、16歳のカーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、電信技士に昇格した。
 
その後、トーマス・A・スコットに秘書兼電信士として引き抜かれ、ペンシルバニア鉄道へ入社する。18歳の頃に、スコットがペンシルバニア鉄道の副社長に昇進すると、代わりにカーネギーがピッツバーグの責任者になった。

オハイオへ移動中のカーネギーに発明家のウードルフが寝台車のアイデアを持ちかけ、ペンシルバニア鉄道は試験的な採用を決めた。ウードルフに誘われたカーネギーは、借金をして寝台車のための会社に出資し、大成功を収めた。1861年に南北戦争が始まると、北軍に味方するスコットに同伴し、軍の輸送を支援した。南北戦争終結後にペンシルバニア鉄道を退職し、事業家となる。当時の鉄道の橋は木製が多かったが、彼は耐久性に優れた鉄製の需要増加を予測し、キーストン鉄橋会社を設立し成功した。
 
さらに、技術革新により鋳鉄よりも強靭な鋼鉄の大量製造が可能になり、鉄道のレールや建築へ使用されることを予見し、製鉄事業の規模拡大に力を注ぎ、鋼鉄王と呼ばれた。しかし、従業員の労働環境は劣悪であった。 1901年に、鉄鋼会社をモルガンへ4億8000万ドルで売却し、以後は慈善活動を行った。

カーネギーは、まだ子供だったある日、母親と一緒に果物屋さんに買い物に行った。並べてあるさくらんぼに見入るカーネギー少年に気づいた店の主人は「さくらんぼを一掴み分だけサービスしてあげよう」と彼に言った。 しかし、カーネギー少年はさくらんぼに全く手を出そうとしない。 そこで店の主人が「さくらんぼは嫌いなのか」と尋ねたところ、彼は「嫌いではない」と応えた。 店の主人は仕方なく、さくらんぼを一掴みし彼の帽子に入れた。 帰宅後、母親がその事について不思議に思い、さくらんぼを取らなかった理由を尋ねてみると、彼は「ぼくの手よりも果物屋さんの手のほうが大きいからだ」と答えたという。
(ウィキペディアより)

会社を売却し、慈善活動を行ったということですが、きっと幸せな人生を歩まれたことでしょう。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。(ルカによる福音書 6章38節)