真贋の森 | 瀧光の絵画世界

瀧光の絵画世界

水墨画、日本画、洋画など幅広い絵画制作活動をしています。
これまでの人生経験や美大大学院で学んだことをベースに、ブログを書いています。

 高校時代 小説を濫読した時に 松本清張も対象に入っていて、その中で、短編ではあるが、「真贋の森」の印象は強かった。


 絵を描くようになって、改めて読み返してみて、益々「真贋の森」に魅了された。
 日本画を勉強したので、小説内容における美術に関する理解が深まり、また、ブログ記事「私の絵画論」で述べたように「浦上玉堂」を敬服するようになっているので、その「玉堂」が贋作の対象になっており、小説の素晴らしさに加えて、いやがうえにも私の興味を掻き立てたのである。


 主人公は日本美術史学会のボスに睨まれて社会的に葬られたが、その権威を失墜させるために、贋作を描く画家を自ら養成し、かれらにも見抜けないほど完璧なまでの贋画を描かせるが、もう少しのところで計画は頓挫するというストーリーである。


 この小説の中で清張は、日本美術界、大学関係、画商、所蔵家などの実態をあからさまに鮮やかに描いており、その重厚な筆致に描かれる世界は、それ自体充分読み応えのあるものになっているのだが、それらを背景とすることによって、ここに描かれている本贋作事件がますます緊迫感をもって、われわれに迫ってくると感じる。




 清張は、美術史家や美術批評家と呼んでも差し支えないほど美術に造詣が深いが、連載小説中の挿絵作家の穴を埋めるために自ら筆を執ったというエピソードもあるほど画技にも優れており、贋作作家の育成過程を描いているところは参考になるので、実際の文章を引用して味わってみたい。

  
・・・鳳岳の素質というものがすぐに俺に分かった。模写と云ったが、売れば贋作なのである。そして鳳岳の腕は、自分の画ではさっぱり駄目だが、模写にかけては見違えるように精彩を出しているのだった。雪舟も、鉄斎も、大雅も、まさしく門倉が持って来て見せた竹田と同じような出来栄えであった。光琳も一枚あったが、こういうものは向かないらしく、ずっと悪くなっていて、南画が彼に最も適していることが知られた。
・・・彼は模写にかけては天才ではないかという気がした。・・・


・・・「よく覚えておいてくれ。君が毎日、この博物館にひとりで通うのだ。玉堂の出ている陳列期間は、あと一週間だからね、それまでは朝から閉館時間まで弁当を食ってねばるのだ」・・・
・・・「これ(画集)は玉堂の画ばかりを集めている。しかし、全部が真作とは限らない。偽作が随分とまじっている。どれがいいか、どれがいけないか、君は当分、こればかりを見ているのだ。博物館通いで、君の眼は玉堂に肥えている筈だから」・・・


 ・・・酒匂鳳岳は、次第に「玉堂」がうまくなってきた。それは彼が玉堂を模倣して描いているうちに、その偉大さを理解するようになったからであり、彼の心が玉堂に真実に触れてきたからであろう。彼は描きながら玉堂を研究した。或る点では、俺よりも、実際の制作者として知る技法上の研究がすすんでいるところもあった。それから、あれほど注意したせいもあってか、構図もよほど巧妙になってきていた。・・・・

 

 わたしも院1前期で「浦上玉堂」に倣った作品を制作した。
 担当教授のフランスに吹く風ミストラルを扱った抽象絵画に倣って自分の絵画を制作しようとしたのだが、試行錯誤しているうちに、ふっと何故だか判らないが、わたしは、玉堂の山水画に倣いながらも、これにブルーを基調とした雨を加えて表現したくなったのである。
 玉堂の絵画は水墨画であるが、こちらは、和紙ではなくキャンバスに、墨ではなくアクリルにより彩色したものになるわけだ。
 
 はじめて玉堂を模写したが、大胆に荒々しく描いているのだが、実際にはかなり細部にまで細かく筆が入っているという印象である。

 それを次に掲げる。

 

 

 

 

 


 清張は社会的に虐げられた人達の哀歓を描き、そして彼らは結局挫折するというのがお決まりのストーリーなのである。
  わたしはそのような弱者が社会に負けるような筋立てに納得できないものを感じるのであるが、ついつい清張の世界に浸ってしまうのも事実なのである。

 しかし、この小説は清張の思い入れが強く、主人公の「事業」が失敗した後に、次のような文章で終わるのである。


 ・・・どこかに或ることを完成した充実感があった。気づくとそれは、酒匂鳳岳という贋作家の培養を見事に遂げたことだった。・・・

 
 
・・・私も「瀧光」という人物を創っているのかもしれない。・・・