2月11日「建国記念の日」を前に、思う事 | 昭和人・滝沢光啄ブログ、雑感、掌編小説

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大正生まれの両親を持ち、明治生まれの祖父母に育てられた『団塊の世代』です。、昭和の最後あたりに生まれの長男とお嫁さん、平成生まれの孫と令和生まれの女の子孫、6人家族。70歳を超えて理解できた事を「小説」に、日々の諸事を「雑感」で綴っています
(登場人物・仮名)

2月11日は『建国記念の日』で日曜日でもあるため翌日12日が代休になる。

 昭和30年代私の小学校の思い出だが、毎年1月1日、小学校に通常の時間に登校、講堂で歳始めの行事があった。校長先生の講話があり、1,2時間で終了した。片道3キロの雪道を歩いて学校に行った。小学生にとってはかなり体力的に負担だったが『年の始め』を実感できる行事だった。3,4年生くらいまでつづいたがそのうち無くなってしまった。

正月の講堂には大きな花器に松竹梅が飾られ、正面に国旗が掲げられていた。

 

 『建国の記念日』の記憶はないが大正生まれ父親や明治生まれの祖父から『建国の記念日』に当たる『紀元節』の話題は良く聞かされていた。共に2月11日だった。『紀元節』が1948年7月20日の「国民の祝日に関する法律」で廃止され1966年に「国民の祝日に関する法律」で『建国の記念日』となった。私は1949年生まれだから1966年と言えば17歳、高校2年生。当時から記念の行事としての意味もあいまいでただ休日だったという記憶しかない。

 48年から66年の空白の期間はどうしていたのだろうか?

 自意識が芽生えた時、「貴方の両親はこちらの方々です」と告げられたような違和感しかもたなかったのかもしれない。

今は日曜日と記念日が重なれば翌日は代休になるというくらいの価値しかない記念日。

 

 内閣府のホームページには『「国民の祝日」は、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)により、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために定められた「国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」です』とうたう

 

 

 大晦日の12時、除夜の鐘がなる頃、父は『清めの塩』で家の東、西、南、北を聖別していた記憶もあり、子供心に新しい年の息吹を感じた。

今、『清めの塩』で理解できるのは葬儀に参加し霊前に供える香や花の代わりとして供える会葬礼状についている小袋に入った塩。

 こうした過去の記憶をたどってゆくと、日本の歴史のなかで育ったわずか70数年の時間だが貴重なモノが消えてしまったと実感してしまう。また「建国の記念日」のように中断なく毎年のように引き継ぐ伝統の大切さも実感する。