自分が自分と自覚 | 昭和人・滝沢光啄ブログ、雑感、掌編小説

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大正生まれの両親を持ち、明治生まれの祖父母に育てられた『団塊の世代』です。、昭和の最後あたりに生まれの長男とお嫁さん、平成生まれの孫と令和生まれの女の子孫、6人家族。70歳を超えて理解できた事を「小説」に、日々の諸事を「雑感」で綴っています
(登場人物・仮名)

人は誕生して成長してそして死んでゆく。人ならず動物植物すべての命あるものも。

 

いつ、どの時点で自分が自分であると自覚したのだろうか?15歳の時か?20歳の時か?30歳の時か?

不惑といった40歳の時か?

 

自分が自分と自覚できない時が人生の中で二つあるように思う。

一つはこの世に誕生した時、母親の胎内から出生した時。もう一つはこの世を去る時と死んだ後のこと。

 

 この二つの出来事は自分の事で有りながら、自分自身が自覚できないという不条理。

この不条理を疑似的に体験できるのは自分の息子か娘の誕生までと誕生の瞬間、そして死の瞬間と死後は自分と親密な知人、親族か家族が死去した時。

「誕生」は結婚、出産という出発から疑似的に体験でき、「死」は死去から葬儀という課程のなかで疑似的にも体験できた。

 この疑似的にも体験できた人と体験した経験のまったく無い人とは差はそれ以降の人生に大きな比重をもたらしていると理解できるようになった。

 

 子供のいる友人といない友人との会話での微妙な何かの差、そして身近な人、祖父母や父母、兄弟といった親族の死に臨んだ事の無い人と話題でのちょっとした感情の異質感・・・

 

 この差、異質感の正体は誕生する前後、死去する前後、その場面に遭遇したの私自身の内に湧いた感情であり、共有した人との関わりによって喚起された情の共鳴感。

 

 

 

 核家族といわれる世相と現代社会の高度な医療と制度の発達で、疑似体験できた大切な「誕生」と「死」にまつわっておきる感情の波が小さくなってきた。

 その結果、「誕生」と「死」持つ大きな意味が隠されてしまってと思えるのは自分だけだろうか?

 

 「出産」は夫の出産時の立会いが薦められているようだがもう一つの「死」は臨終は一瞬の出来事でそれ以降のは全くと言って良いほどカーテンの中で行われるようになった。

 さらに昨今の映画、ドラマ、アニメ、更にはゲームなどに小説に登場する『誕生』と『死』の場面の氾濫、ニュースで流される親殺し、子殺し、殺人事件の犯人の『死』ににたいする一言。

 最も気になるのはコミック本やストリー性のあるゲーム。そこに描かれた『誕生』と『死』、『誕生』にまつわる愛、性の物語の直截的な表現と誇張された描写の数々。

コミック本は今や小学校児童から20歳の若者、30,40,50歳と言った大人まで愛読者いる。

死が身近になってきた半面、真実な姿から離れて行ってしまった。

今は古本屋とは言わないだろうが、この書店に立ち寄ってみるとコミック本の多さには圧倒されしまう。

 

 私は戦争で親族を亡くした叔母の悲しみを見、同居していた祖父母を送り、父母を送り、親友だった中学生の友人を送った。

 

 今私が感じる『誕生』と『死』と全く異質な『誕生』と『死』が蔓延している世の中になったような思いに陥る。

 

 私の感覚が異常なのだろうか?