ようやく村田清風記念館へ | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

ようやく村田清風記念館へ

本当に長い間、行きたいと思いつつ、遠くて行けなかった山口県長門市の村田清風記念館を訪問する機会を得た。

私が敬愛する江戸期の先人のひとりである。

村田清風は、5代にわたる長州藩主に断続的に仕え、長州藩の財政改革と軍備再編を行い、維新回天以前に藩の基盤を強化した、長州藩士である。

14歳で藩校である明倫館に入学すると、当初は片道20キロを徒歩で通った(その後、能力を認められ入寮)。

清風は、藩主に登用されては厳しい緊縮財政策を推進し、反発する勢力にそれを妨害されて志半ばで藩政の場を去ること4回。

その後、藩主毛利敬親の信任を得て藩政改革を主導し、藩士の商人からの借金のある種の棒引き策を推進しつつ、防長三白(米、塩、紙)の生産増を推進するとともに特産物である蝋の専売制穂廃止、商人による自由な取引を許した。その代わり、商人に対しては運上銀を課税した。結果的に蝋の生産は増え、防長四白と呼ばれるまでになった。さらに、下関という交通の要衝に越荷方を設置した。これは藩が下関で運営する金融兼倉庫業である。その際には今でいう民間活力を活用し、豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用した。

清風が偉いのは金の使い方まで考えていた点であり、越荷方による儲けは藩の軍制改革にも充てられた。近代的な鉄砲を中心とした戦術への改革や、天保4年(1843年)の阿武郡羽賀台での軍事演習もよく知られている。

また、吉田松陰との交流も有名であり、松陰は清風を師と仰いだという。ちなみに、清風は捉えられた松陰を救おうとしたがこれは成功しなかったという。

 

なお、清風は若い頃、江戸で塙保己一から兵法や海防策を学んだというから埼玉にも縁がないとも言えない。

 

清風は、知名度的には長州の有名人という位置づけに止まるが、(その是非は別として)維新回天は清風なしにはあり得なかった、という大変重要な人物である。薩摩でいえば調所広郷の立ち位置に相当する。

 

彼の愛した素朴な屋敷は現在も記念館の隣に保存されており、今にも清風が現れそうな雰囲気だが、その屋敷は屋根が傷み、特に雨漏りの様子が痛々しかった。

また、記念館は展示が今風に一新されており、マンガを交えて大変わかりやすい展示になっている。お子さんと訪問してもきっと楽しいはず。