作家の文章と編集の権限~鴻上尚史vs某通信バトルを考える | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

作家の文章と編集の権限~鴻上尚史vs某通信バトルを考える

成人の日に掲載予定だった鴻上尚史さんの文章をボツにした某通信。その社長さんのblogが炎上して週刊誌ネタになっていますね。
この「成人の日に寄せて」では、大人になるということについて「自分の人生を自分で決めるということである」という前提で、まず「高校生らしい服装」という概念について批判をするというていで「○○らしい」について述べています。その背景にあるのは、彼が感じている、日本の若者たちは、ずっと「自分の頭で考えるな」という指導を受けて来たんだ、という思いから来ているというわけです。まあ、蛇足ながら私はむしろ、指導が楽だ、という指導者側のご都合主義・予防的手抜きを感じるわけですが…。
さて、その前段は、「らしい」ということの曖昧さ、定義、不可能性を述べて終わります。
その後、問題の箇所が出てくるわけです。
〈「服装の乱れは心の乱れ」という日本中で繰り返される標語がありますが、大人に気づかれないように巧妙にいじめる奴らの服装は乱れているでしょうか。陰湿な奴ほど、ちゃんとした服装をしていじめることをみんな知っています。〉
という部分です。
そして、自分の頭で考えることを皆さんにお勧めして、ついでに本屋で本を買ってね、と加えてこの成人の日に寄せてのメッセージは終わるわけです。
そこで、鴻上さんを批判した通信社の社長のブログの問題箇所です。
以下引用
〈元の原稿とゲラを見比べると、体言止めに変えたのは2カ所だけ。わざわざ直さなくていいような箇所もありましたが、新聞用字用語ルールに沿った直しや、予定行数に収めるための些細な修文が大半です。「陰湿な奴ほど、ちゃんとした服装でいじめることをみんな知っています」という一方的な書きぶりも、「ちゃんとした身なりをしていても、いじめをする人はいます」というバランスの取れた表現に変わり、むしろ読みやすくなっていました。まずかったのは、鴻上氏とのやりとりで「言葉の重複はできるだけ避けた方が美しい」などと説教を垂れたことでしょう〉
見ればわかりますが、鴻上さんの文章は、決めつけていて、乱暴で、一方的ですが、編集サイドの修正案はあいまいで、社会に忖度した、無難なものに仕上がっています。
これが記者の文章なら、この直しも「あり」ですが、作家に依頼したということは、相応の個性や品格、場合によってはぶっ飛んだものを求めてのことでしょうから、この修正は作家の文章の個性を殺し、誰でも書けるものに修正しようというものだということが言えます。
私は編集者でもありますが、編集のルールとして「いわゆる出来上がった一人前の作家の文章は勝手に修正しない」というものがあります。ですから、編集者のコメントは「疑問出し」という形をとります。
その疑問出しのプロセスを経て、ある意味で「ぶっ飛んだ」文章や思想の責任は基本的には作家の責任に収束していくのです。また、ご本人が責任をとれない、とか、まあ無難に行こう、という場合には疑問出しの通りに修正を行います。
つまり、修正しない、ということは鴻上さんが「俺の責任でこの文章はこのまま行く」という宣言でもあるのです。作家としてのアイデンティティであったり、主義主張であったり、というものについては依頼者は基本的には不可侵であり、その作家を選んだ時点で呼び出し太郎たる編集(権)者はそのリスクを取るのです。
もちろん、差別や倫理違反の部分が決裂すれば掲載しない、という判断になりますが、それはもう、一般的な文章のよしあしや好き嫌いの範疇を越えたものであり、それでも主張したいとしたら、仮にご本人がツイートしようがそれはそれで炎上するだけ、ということになるでしょう。
今回のトラブルは、通信社の判断ミスです。
まず、無難なものを求めるなら鴻上さんではなく、池上彰さんに頼めばいいのです。
次に、出てきた文章を見て、無難なものに修正したいという誘惑に負けた。疑問出しをして、相手が拒否したら載せるしかないのです。
さらに、社長が反論して問題が周知された。ガチのツイッター民なんて人口の数パーセントです。スルー、流せばよかったのです。
いずれにしても、鴻上さんの文章が載せられないほどぶっ飛んでいたかというと、作家らしい決めつけだなあ、鴻上さんらしいなあ、で終わった可能性が高いと私は感じました。
何より、作家の文章を骨抜きにする編集者なんて何ともつまらないじゃないですか。
画像は鴻上さんのTwitterより。