阪神淡路の鎮魂の日 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

阪神淡路の鎮魂の日

阪神淡路から四半世紀と1年が経過しました。

あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

以前の神戸の街並みを知る人が歩けばもちろんたくさんの変化を実感する今の神戸市内ですが、おそらく昔の神戸を知らない人が歩けば、震災の形跡を見出すことすら難しいのではないかと思います。

 

兵庫県明石市という、漁師町と城下町が組み合わさった田舎で生まれ育った私にとって、神戸という街は文明の窓というか、都会の香りがする場所でした。

たとえば、古書店というのはブックオフが全国展開するまで、ある程度文化の香りがする街にしかなくて、神戸の高架下にある多種多様な古書店は私にとってはめくるめく文化の光と出会う場所として、とても素晴らしいパラダイスでした。

小学校高学年になると、親に黙って、自転車で26キロ離れた神戸の街まで行き、古本屋やジュンク堂で本を買っては読み漁りました。

中一の時は親に頼んで夏期講習で神戸のパルモア学院という英語学校に行きましたが、正直、英語を習うというより、神戸の街に行きたかったのです。

高校時代も神戸の大道学園という予備校の現役コースに通いましたが、そこで知り合った阪神間の高校に通う友人と神戸の街で過ごす時間が一番の楽しみでした。

多分、青春の成分の何割かは神戸の街でできているのではないかと思います。

 

さて、前置きが長かったのですが、そんな神戸のまちが、私が生まれ育った明石や阪急ブレーブスファン(元ファンです)の聖地西宮とともに被災し、特に両親が半損(その後、家は解体)となった家の片づけをするのを手伝うため、震災の翌週に会社から休みをもらい、私は神戸の阪神青木駅経由で神戸市内を徒歩で横断、須磨駅からJRで明石までたどり着きました。

とにかく私の青春そのものと言っていい神戸の中心街の変わり果てた姿に衝撃を受け、さらには被災して苦労する人々の様子の身近に触れる中で、防災というものに関心を持ったのが私の政治への関心の一つの原点と言っても過言ではありません。両親も親戚も本当に苦労しました。私は手伝った程度ですが、とにかく生まれて初めての経験でした。

 

今となってはばかばかしい限りですが、とにかく当時の神戸では「神戸には大きな地震は来ない」という誤った認識があり、実は学者たちは警戒を呼び掛けていたにもかかわらず、人々の備えは不十分でした(本来まだまだ生きられた人々が備えの不備で亡くなられたケースが山のようにあるということであり、ご冥福をお祈りするだけでなく、二度とこのようなことは起こしてはならないとあらためて強く思います。それが真の意味での鎮魂となることでしょう)。

また、行政の備えももちろん、不十分であり、発災から数日間の物不足、情報不足は本当にすさまじいものでした。

幸い、東日本大震災と比較すると被災地が狭くて、他の地域からの援助は届きやすかったのですが。

 

さて、和光市が想定して備えている地震としては、東京湾北部などの直下型と南海トラフなどの海溝型の巨大地震の双方が挙げられますが、仮に直下型であるとしても、首都圏が被災すると神戸とはけた違いのさまざまな問題が出てきます。特に、東京の隣町である和光市には東京と比較して援助が届きづらい可能性もあります。

防災協定をはじめ、大規模災害時の職員派遣などを積極的に行っているのは、もちろん、困っている方々の力になるためですが、まさかの時に「そういえば和光市は大丈夫か」と思ってくれる自治体や人を増やすためでもあります。そして、人材育成のためでもあります。

 

ただ、まず大切になってくるのは最初の24時間を耐えるための自助です。

こういう節目の日にはぜひ、和光市の関係サイトもご参照のうえ、ご自宅の備えを再確認願います。

神戸のまちで不明者の捜索をする自衛隊員(松本撮影)