和光市立中学校のご卒業おめでとうございます。そして、メッセージの続きがあります | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

和光市立中学校のご卒業おめでとうございます。そして、メッセージの続きがあります

本日、和光市内の中学校は卒業式です。

心からお祝い申し上げます。

一方で、卒業生のご家族のご出席をかなえることができる状況にならず、本当に残念です。
私からのメッセージはペーパーでお届けいたしました。
毎年、卒業式のメッセージのためにテーマを決めて文献を読み込むのですが、今年はナイチンゲールをテーマに決め、関係論文を日本語の論文の範囲で、ではありますが、漁ってみて、いわゆるウィキペディアやネットまとめ記事ではうかがい知れぬ、時代背景とナイチンゲールの思想について、ご紹介したいと思います。
特に卒業生で今日のメッセージに興味をお持ちいただいたお子さんにはぜひ、より踏み込んだ話として読んでいただければと思います。

さてあらためて、今年はフローレンス・ナイチンゲールの生誕200年ということで、今日は中三の皆さんにナイチンゲールのお話をさせていただく予定でした。
ナイチンゲールはイギリスのジェントリ(郷紳。貴族ではないが大地主、という富裕層の階級)の家庭に生まれました。両親の新婚旅行中にフィレンツェで生まれたのでフローレンスです。というと、「すわでき婚か!」と思いがちですが、新婚旅行、なんと3年も行っていたそうです。桁違いのお金持ちですね。
そして、よく「贅を尽くした教育を受けた」と言われますが、現代のような「いい教育はエリート校で」という時代ではありません。基本的に富裕層の教育は家庭教師です。また、父親がインテリだったそうで、父親の指導を受けました。
中身は語学から哲学、数学、芸術、天文学まで、リベラルアーツ全般。
ナイチンゲールの後日の活躍の基礎は、この広範な知的基礎体力の上にあったことがよくわかります。
一方で、看護という天職に就くまでの彼女は「ああ、飽き飽きするような退屈な毎日」「年毎に若さを失っていくこと以外、私が生き続けていても何も得るところはありません」(ナイチンゲールの日記より)という日々を過ごしていました。
実は彼女はすでに、ローマの貧しい人々の暮らしに接し衝撃を受け、看護の仕事に就きたいと考えていたのです。彼女いわく「神に仕えなさい」という(神の)声が聞こえたんだとか!
しかし、当時の上流階級の家庭では、いわゆる職業婦人というのはあり得ない選択であり、家族の反対と自分の理想の中で20代半ばまでもがき続けることになります。

やがて、出会いがあり、家族の反対を押し切ってドイツのカイザルスベルト学園という施設に滞在するチャンスを得ます。この学園は病院、更生施設、教護院、師範学校、孤児院・幼児学校からなるキリスト教の施設で、ディアコニッセ(ディーコネス)*というキリスト教女性奉仕員(看護や教育の技能を持つある種のソーシャルワーカー、社会福祉職)を養成する施設でした。ここで、看護のみならずキリスト教思想をベースとしたソーシャルワーク全般の知識とスキルを身に付けます。
そして、ナイチンゲールの看護の世界での活躍が始まります。
彼女がクリミヤ戦争で活躍したことは大変有名ですが、彼女の活躍には下地がありました。当時の兵士というのはいわゆる貧困層の若者のうち、体力があり、一方で精神的にはならず者、厄介者の集まりであり、そんな「野獣」のような彼らに与えられた待遇というものはひどいもので、現代の軍隊のような清潔な宿舎と栄養のある食事とはほど遠く、そして、けがをした場合の治療や看護もひどいものでした。
本来であればかからなくても良いような重い感染症で命を落とす者も多かったといいます。
そこでナイチンゲールは、以下の3つの改革をします。
①不潔で非人間的な環境を改善するとともに、病からの回復を促進する器として整備した
②兵士を同じ人間として接し、励まし、必要な手当てを十分に行い、彼らの持てる力を引き出した
③回復期の兵士には教育を与え、図書館を整備し、郵便を整備し、彼らが社会人として生きていくための援助を惜しまなかった
要するに、(これすらも不十分だったが)劣悪な環境と看護の不足、という条件を改善させることにより兵士の肉体的な損傷を回復させるのにとどまらず、彼らを一人の人間として認め、「野獣」から「規律ある人間」へと変化を促し、これに成功したのです。
しかも、その背景には得意の統計学を生かしたデータ解析による科学的な改善策があった、というわけです。

さて、彼女の活躍により、スクタリの兵舎病院の死亡率は半年で42.7%から2.2%へと低下します。彼女はこのような兵士たちの課題とそれに対する対応の中で見出したソーシャルワークの視点で代表作『救貧覚え書』を著しています。「救貧」とありますが、要するにそれまでの富裕層の馬車の中からパンを投げ与える類の行為ではなぜ、貧困が解決できないか、という問いへの答えを彼女は実践とその背景にある莫大なリベラルアーツの素養によって見出した、というわけです。

ただ近代看護の母、と呼ぶのでは表現しきれない、彼女の凄みですが、彼女の後半生ではそれがさらに見事に開花します。
クリミヤ戦争の翌年、彼女は心臓発作で倒れ、看護の現場を去り、その後は、研究とその実践のための政治的活動により、看護のみならずソーシャルワーク全般の質の向上や女性の質の向上に尽力することになります。

今日はとりあえずここまで。

 

追記 ナイチンゲールについては、ナイチンゲール研究というひとかたまりの研究「クラスター」があり、日本語だけでも膨大な文献があります。なかにどのようなものがあるかというと、

・看護学的な視座のもの

・公衆衛生学的な視座のもの

・統計学的な視座のもの

・女性学的な視座のもの

・ヴィクトリア王朝期の研究的な視座のもの

などがあり、いかにナイチンゲールの仕事が幅広く、現代的な意義を持ち、しかも人々を惹きつけるものであったかが分かります。

 

*ディアコニッセは全世界に派遣され、たとえば静岡県の聖隷准看護婦養成所にもドイツから5名のディアコニッセが来日し、看護人材の養成に尽力したそうです。

参考文献
金井 一薫「看護思想を通してみたF・ナイチンゲール著『救貧覚え書』の今日的価値と, 社会福祉教育におけるその教育的活用効果について」『共栄学園短期大学研究紀要』
佐々木 秀美「ナイチンゲールの看護・福祉思想 ―『 カイゼルスウェルト学園によせて』を手掛かりに ―」『看護学統合研究』
佐々木秀美「ドイツにおけるディアコニッセ養成がナイチンゲールに与えた影響について」『看護学統合教育』 などなど