文書改ざん問題を見て思うこと | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

文書改ざん問題を見て思うこと

(論考は小室直樹さんとか、大塚久雄さんとか、その他もろもろの受け売りです。)
 
文書改ざん問題を見て思うこと。
 
一神教の国とその他の国での契約やルールに関する考え方の違いが、普段は個人の倫理観や組織の規律によって隠されていて、しかしながらこういう場面では露呈する、そんなことをニュースを見ながら考えています。
 
要するに一神教世界では契約は唯一の神との契約による絶対のもの。だからこそ、契約は厳正に定め、守ります。守らないと最後の審判の日が危ない。
戒律なんかは仏教とユダヤ教だと、意味合いが異なりますよね。
イスラム教の人は基本的に豚を食べないとか、最近は緩んでいるかもしれませんが、やはり守られている。
日本だと、戒律を守るお坊さんはほとんどいないと思います。
 
だから、なのかどうなのか、日本と欧米の社会は似ているようで異なることが多い。なぜ似て非なる国家や社会が出来上がったが、ということを考える際に、参考になるのは大日本帝国と戦後日本国の成立過程です。
 
さてさて、いつも小学生に国家のことを説明する際に、「日本国という国家を見たことがある人!」と問います。
まず「ない」という返事が来ますよね。
「国家というものはみんなの頭の中だけにあるんだよ」というところをまず理解してもらいます。
そして、要するに世の中の制度とか仕組みというのは全て人間の頭の中だけで存在し、それが実際に機能するのは「国家はある」という仮説を皆が支持しているからだ、と理解してもらいます。
要するに社会というものはそういう仮説の積み重ねでできていて、その仮説を理解し、共有することが社会で生きることなんだということを力説しています。
 
その次に、日本とか欧米の国の人権に関する共通認識の根っこは「人は生まれついて自由であり、いわゆる人権を持っている」という仮説を共有するところにある、というお話をします。
 
国家とか会社とか学校なんてものはあるけどないんですよ。生まれついての自由も仮説。この仮説の共有が人間の社会を巨大化させたわけですが、仮説が共有できるかできないかで社会は「ウチ」と「ソト」に分かれます。
 
我が国は、明治維新以降、この仮説を欧米先進国と共有する社会を作ろうと努力して来ました。先進国のウチに入ることで不平等条約を改正し、列強に名を連ねられると思った。
 
ただ、一つハードルがあった。それはざっくり言って非キリスト教国だということ。だから、我々を超越した「神が与えたもうた人権」的な意識の共有が難しい。
一神教の神は絶対の存在で、日本の八百万の神とは異質なもの。だから、日本人にはこの神が与えたもうた人権、という概念はしんどい。
 
そこで伊藤博文らは、絶対的な現人神たる天皇陛下とその臣民というモデル、仮説を考案したわけです。それは江戸時代までの天皇陛下像とは明らかに異なる。そして、立憲君主制モデルの日本帝国という仮説のもと、欧米先進国と一見そっくりな社会をつくり、不平等条約の撤廃にも成功する。
ただ、設計者の意図から離れて暴走した結果、日本は敗戦し、新たに象徴天皇制日本国というモデルへと移行する。ただ、この絶対的な現人神としての天皇陛下を失い、日本の民主主義は迷走を始めます。
 
何しろ「日本は仏教と神道の国だから神が与えたもうた人権、というのは嫌だ」という当然の疑問には誰も答えられないわけです。
そこで、自民党さんのように「それに代わる新たな位置付けを考えたい」という話が出てくる。
根っこには、我が国がざっくり非キリスト教圏にある、という先に書いた課題がある。
 
先般、片山さつきさんは「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」と述べて批判を浴びました。ちなみに、自民党さんは党として、「天賦人権説は西欧のものである」として「その考え方に基づく現行憲法の条文は改正する」とホームページで明言していています。
 
いずれにせよ、「人権を与えてくれる絶対的な存在」がない中で、我々日本人は憲法をどう自分たちのものにしていくか、という欧米人にはない、本質的な課題と向き合わざるを得ないのです。
 
そして、見失ってはならないのは、欧米先進国と同じような価値観を共有する社会であるためには、ある程度の仮説を共有している必要があるということ。
そのひとつが天賦人権説、つまり、人は生まれついて自由であり、いわゆる人権を持っている、という先に述べたアレです。
 
本題に戻ります。
文書を改ざんしない、というルールが組織の緩みによりいとも簡単に破られる、村木さん事件では検察官が証拠の偽造までやってのけた、それはここまで述べたような日本社会の成り立ちによるものであり、だとしたら、私たちはその根本と向き合わなければならないのではないかと、あらためて感じました。
 
もちろん、みんなで一神教に入りましょう、というのではありません。
契約概念の成り立ちとか、社会モデルの成り立ちみたいなものを教育の過程で共有する必要性を私は痛感しました。
だからこそ、小学生には全員にそのお話をしているわけです。