近代立憲主義と中世キリスト教 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

近代立憲主義と中世キリスト教

世の中には「憲法の役割は権力を縛ることにある」という、まあ、憲法の根本ともいえる考え方がしっくりこない人が結構な数いるわけなのですが、今日はこの点の説明をします。
とある「保守の論客」は、この考え方は近代立憲主義だから古い、福祉国家の時代の憲法という視点が欠けている、というようなことを言っていて、正直、何が言いたいのか、としか反応しようがありません。


さて、冒頭の「憲法の役割は権力を縛ることにある」はブラクトンの言葉

「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある。なぜなら、法が王を作るからである。」

という法諺(格言みたいなもの)の流れの下流にあるものです。後にこれをエドワード・コーク(注1)が「俺が絶対王権のトップだからおまえらは黙って言うことをきけ」という態度に出ていたイングランド王ジェームズ一世を諌める際に引用した(注2)ことが知られています。


ブラクトンは法学者でありますが、中世のキリスト圏の神学者でもあります。そして、当時のヨーロッパはローマ教皇を頂点としたキリスト教世界の宗教的な権威が隆盛を誇り、イングランドでも世俗の頂点にあった国王とキリスト教的な権威が競合していました(アメリカの憲法だってたどってみればピューリタン革命の生んだものです)。
ということで、近代立憲主義が憲法により国家権力を縛ろうとしたのは教俗の競合という背景があったということを無視しては「憲法の役割は権力を縛ることにある」などとはいえないのです。

神学者が世俗の権威に対して表明した不信こそが憲法による権力の抑制を生む根拠となったというわけです。これはまさに憲法のひとつの出自というか源流であり、こうやってできた憲法が福祉国家の時代になろうが「憲法の役割は権力を縛ることにある」という前提を無視しては存在しえないというわけです。
だから、ゆめゆめ、冒頭のような恥ずかしい言論の尻馬には乗らないことが大切です。


なお、「ここは日本ですよ」という意見があるかも知れませんので一言。日本だからと近代立憲主義の根本を無視して民主主義を運営すると、本筋すら離れてぜんぜん別物を運営していた、ということになりかねません。また、少なくとも欧米諸国からはそう見られることになるでしょう。それは、伊藤博文翁以来の先人の努力を無にしかねない愚行です。

(注1)林深山先生はエドワード•コークの人物像の紹介で「彼は、国王は正義の源泉であるからいかなる訴訟をも引き抜いて自ら審理処断しうるとしたジェームズ1世とその大権に対抗してコモン•ローおよびその裁判所の優越を主張し、国王の言明は法を変更するものではないという『法の支配』の思想を説いた。」としている。

(注2)本当に引用したかどうかは明らかではない(下記参考文献p94による)


参考文献:プラグネット著、伊藤正己監訳『英国法制史』pp5-7,p35.