子どもたちに郷土の歴史を教えたい~今年の初詣であたらめて感じたこと | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

子どもたちに郷土の歴史を教えたい~今年の初詣であたらめて感じたこと

恥ずかしながら、私は子どもの頃、郷里の歴史や風土に特段の関心を持たずに来ました。

私が唯一、子ども時代にまとも読んだ生まれ故郷明石の郷土史に関する文献は『あかし昔ばなし』(神戸新聞社)だけです。

しかし、大人になって、いろいろな視点から生まれ故郷のことを調べるにつけ、豊穣な歴史があったことを見逃していた、と痛感させられます。

今年の初詣は明石市の稲爪神社に行ったのですが、ここの歴史についても『あかし昔ばなし』だけが私の知識の源泉でした。

ここは7世紀初頭、推古天皇の時代の故事からくる古い由緒を持つ神社です。説明しておきましょう。(面倒な方は飛ばしてください。)

三韓(朝鮮)から鉄人と呼ばれる将軍が8,000の兵を率いて日本を侵略しました。朝廷はこの大軍とまともに対峙する兵力を持たなかったので、講和を結ぶという建前で戦闘に有利な播磨の国まで鉄人をおびき寄せます。討伐を命じられた伊予の小千益躬(おちのみすみ) は、伊予今治の大山祇神社 (おおやまづみ じんじゃ) に祈りました。すると、「鉄人の弱点である足の裏を狙え」というお告げがありました。そして、鉄人一行が明石に着いたときに、突然天地を裂かんばかりの大稲妻が走り、大山祇神社祭神の大山祇神が姿を表しました。驚いた鉄人が弱点の足の裏を見せた瞬間を狙って、小千益躬はその足の裏を弓で射ました。弓は足の裏から頭まで貫通し、鉄人は死にました。こうして国難を脱した小千益躬は、大山祇神が現れたこの地に、お礼参りの意味で社を建てて大山祇神を祀りました。それがこの神社の由来です。稲爪の名は、稲妻から転じて稲爪となった、と伝えられています。

ちなみに、戦国時代、秀吉の幹城主別所長治攻めの際にこの神社を焼き討ちにした高山右近はキリシタン大名でした。で、のちの明石城主でもあります。


さて、1つの神社にもこのような物語があり、地域の歴史を学ぶことは日本の中のその地域の立ち位置を学ぶようなところがあります。また、本来の愛国心の源泉である「郷土愛」にも直結していると思います。また、こんな背景を知って神社に詣でるのとそうでないのとでは地域への思いも違ってくるでしょう。

和光市では現存する県内でも最古の古民家を再建した「ふるさと民家園 」をはじめ、さまざまな歴史的な資源があります。これをうまく子どもの興味や学校の教育と結び付けて、子どもにしっかりと教えていくことは、ひいては正常な愛国心の涵養に資すること間違いなし、と私は思っています。

子どもの頃、私は稲爪神社の故事について十分な知識を持っていませんでした。

海外からの侵略、という歴史的な大エポックと結びついた神社であったことについてしっかりと教えてくれる大人は残念ながら周囲にいませんでした。

『あかし昔ばなし』には表面的な記述はあっても、当時、小学生の私の調査能力ではその真相を知ることは不可能だったのです。ただ、それでも『あかし昔ばなし』があったために私は多少の知識を持つことができました。

和光市の過去について、『あかし昔ばなし』並にしっかりと子どもたちに分かるように説明できる何かを市として提供できないかと考えているところです。まだ、考えているところですが。

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