ミーゼスの弟子、村田稔雄先生の講義を聴く | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

ミーゼスの弟子、村田稔雄先生の講義を聴く

今日はJTRの国会での勉強会。

ミーゼスの直弟子である村田稔雄先生の講演を聞きました。

ミーゼスとの想い出を中心に自由について語るというものであり、日本にもこんな人がいたという驚きの時間でした。

村田先生は学徒出陣による大陸での勤務の後、戦後は物価査定委員会で仕事を経験しました。

そこで見た、現実とかけ離れた議論に驚き、「個人の自由を守りながら経済を発展させられる理論はないものか」と感じていました。

そして、ミーゼスの『Human Action』に出会い、自ら『自由と経済』というニューズレターを刊行するようになりました。

それがたまたま日商岩井の前身岩井の社長の目にとまり、アメリカへの留学を勧められます。そのとき、日本の物価はアメリカの10分の1以下。それでも留学することができたのはアメリカ人の選択の自由を支える奨学金制度でした。

フォルカー財団の奨学金を得た村田青年はアメリカのNYUに留学し、ミーゼスに師事します。

ウィーン大学では無給の講師職しかなく、その後著書『自由主義』をナチに全冊没収されるなど、さまざまな弾圧を経たミーゼスは、60歳という年齢で、裸一貫でアメリカにやってきます。その時、NYUに寄附講座を作ってミーゼスの席を確保したのも、後に村田先生の奨学金を拠出したフォルカー財団でした。

ミーゼスは自由競争を弱肉強食ではなく適材適所、配置転換のしくみであるとし、また、生産とは物質的なものではなく内面的、精神的なものであると強調しておられたそうです。

また、映画『生きる』を見て、「仕事をたらいまわしにする日本の資本主義がよく描かれている」と言っておられたそうです。

ミーゼスはバットマンにも登場しました。ミーゼスの本を没収しようとした官憲にたいしバットマンがゲリラ攻撃を仕掛けるというシーンです。
ミーゼスはまた、ナチと社会主義はほとんど同じと看破し、そのようにみなしていたようです。

そのためか、日本に帰った村田先生は随分社会主義者から弾圧されたそうです。ある大学で村田先生が講演を頼まれ、現地入りしたところ、マル経の教授が動員した学生がバリケードをはり、先生はそのなか、たった5人を相手に講演をしたそうです。

またあるときは、大学の同僚が「自由主義者ミーゼスの弟子村田をクビにしろ」と学校側に迫ったそうです。ウィーン学派とマルクス主義者たちとの戦いを考えると、気持はわかるのですが、学問的な論争ではなくたんなる業界内政治的な弾圧であったというところがなんとも不愉快です。

社会主義者による弾圧の連続だったんだな、というのが今日受けた強烈な印象です。

最後に先生は、自由と資本主義について、先生は資本主義がないと自由が育たない、また、資本主義は私有財産が前提である、経済がわからないと自由はわからない、といっておられました。

自由を主張し、社会主義者に弾圧されてきた先生の話を聞けたひと時は貴重な経験でした。