市民参加の正当性を誰が担保するのか? ~市民参加って意外に胡散臭いぞ
最近、市民参加という言葉が正義としてごくごく当たり前に使われています。
しかし、議論を見ていると本当に荒っぽい話で心配になります。ぱっと見た目は正義っぽい話なので、受け入れられやすく、しかしながら大きな問題をはらむ概念なのではないかと個人的に思います。
◎市民参加の議論に蔓延する問題点
とりあえず、問題点を思いつくままに列挙してみたいと思います。
①市民参加は権力の市民への移譲という側面があるが、その正当性を誰が担保するのか。
②市民全員が常識的と言うわけではないが、参加して大丈夫な市民とダメな市民の基準は決めるのか、また、誰が決めるのか
③直接参加の機会に参加してくる人はいつもほとんど同じなのだが、そんなことに税金を投入する価値があるのか、十分議論されていないのではないか
④結局市民参加の基準を引く行政に権限が集中するのではないか
⑤実務レベルの話なので、行政が判断するといってもその実は選挙で選ばれる首長ではなく、行政担当者となる。そのコントロールはそう簡単ではないのだが、暴走や一部議員との結託をどう監視するのか
⑥市民の意見は行政の意見より正しいという決め付けが氾濫しているのではないか
⑦今議論されている市民参加の中心は直接参加だが、直接参加できない人々の意見集約が脆弱ではないか
⑧政治的な勢力(政党、議員、首長など)が市民参加の機会を利用して自己の主張を広げようとするのではないか
◎市民参加は絶対善か???
とりあえず、「市民参加=絶対善」という迷信が蔓延していることに危機感を持っています。市民だっていろいろな人がいるし、市民にはいわゆる「プロ市民」的な方が紛れ込んでいるわけです。
たとえば、男女共同参画の議論でフェミニストが各地の審議会にプロを送り込んだ、と主張する学者もいます。
◎パブコメの充実のほうが優先度が高いのではないか
直接参加は結局のところ、効果があいまいなのに高価な「贅沢品」だと思います。
むしろ、自治体の情報が基本的に全てオープンになることと、パブリックコメント制度(役所が政策を提案し、市民が直接コメントを寄せ、その検討結果を公表する制度と考えるのが分かりやすいでしょうね)の充実が先ではないでしょうか。
市民参加の時間が無い人を救済する議論が置き去りのまま、今のような「一部市民の参加」が進んでいくことを恐れます。
◎負担者と受益者が違う
もう一つ、実は参加したい市民はほとんどいない、というのが現実です。特に納税者として担税力のある働き盛りの人々は市民参加などには興味がないのです。実は行政に関する議論でいちばん問題になるのは受益者と負担者の間のずれなのですが、市民参加はそれが顕著です。
結局、市民参加、特に直接参加は耳ざわりはいいもののかなり根拠があいまいで、運用においては慎重さを要する制度であるといえるのではないでしょうか。
ちなみに、ある雑誌(雑誌名を明らかにすると先入観を持つ人がいると思われるため、エチケット違反ですが、あえて省きます)の記事には選挙で退勢が続く左翼の権力奪取のための新しい方便という指摘があったので、一応、挙げておきます。
追記:もちろん、多くの人が積極的に参加する市民参加であれば、私の上記の記述の根拠のうち、一部は崩れてきますし、その方向性がどちらかというと望ましいのは言うまでもありません。