落合博満さんが山本昌さんの価値を一番分かっていた人なのかもなぁ。 | ご存じ無いかもしれませんが、恋愛小説家です。

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テレビ番組の感想などをこそこそと書いております。

 週刊文春に「殿堂入り 山本昌200勝の日に落合博満が要求したこと」

という記事が載りました。

 この記事を書いたのは「嫌われた監督」という落合博満さんを書いたドキュメンタリー作家、鈴木忠平さん

 

 

 

 中日ドラゴンズで活躍した山本昌さんがプロ野球の殿堂入りをされました。

落合さんは8年間中日ドラゴンズの監督をされてますので、山本昌さんが現役時代に落合さんが監督をされていたこともありました。

 

その頃、既に山本昌さんは40歳を超えてました。勝利投手の権利が取れる5回を過ぎるとその頃はピンチを招くことが多くなってきたそうです。

 山本さんは苦しそうにベンチを見ますが、落合監督は投手交代しなかった。若い投手だと5回を待たずにスパッと替えてた落合監督が山本昌さんは代えなかった。

山本昌投手は、6回、7回に相手打線につかまって、逆転されて勝利を逃すことがあったそうです。

 落合監督は山本昌さんに対する非情采配と鈴木には見えていたそうです。

 

 2008年、落合監督は鈴木さんたち新聞記者に文句を言ったそうです。

山本昌さんが195勝目を挙げて、3000投球回数を達成した日。落合さんはそのニュースが新聞の片隅に追いやられていたことを指摘して、あれは20年続けないとできない記録だ。それを大きく扱わない新聞にはしゃべらないと文句を言ったそうです。

 そして、続けて言ったそうです。山本昌さんが200勝を挙げた時は九州から北海道まで全部一面なんだろうなと。

 その年の8月4日、山本昌さんは巨人相手に200勝目を挙げます。落合監督はそのゲームで最後まで山本昌さんを交代させなかったそうです。42歳に最後まで投げさせた。

 「今日は個人の記録だ。日本シリーズとは違う」と。

実はこの完投勝利が最年長完投勝利だったそうです。

 落合さんはクビ寸前だた頃から山本昌さんを知っていたそうです。プロ4年目まで1勝もできず。5年目のベロビーチキャンプの後、山本昌さんはアメリカのマイナーリーグでそのまま投げることになったそうです。

そこでスクリューボールを覚えた。そこから日本に戻ると初勝利を挙げる。そこから20年投げて200勝を挙げた。

山本昌さん苦労人だったんだね。

 落合さんは中日、巨人とプレイする中でずっと山本昌さんを見てきた。

落合さんは山本昌さんのことを「人間どこで運が開けるか分からない。その見本だろ」と言われていたそうです。

落合さんは山本さんを本当のプロ野球選手として敬意を払っていた。だから、5回過ぎてちょっとへばってきたからと言って簡単に代えなかった。

 落合さんはさらに山本昌さんのことを語ります。

 

「この世界には自分でユニフォームを脱げる選手と脱がされる選手がいる。あいつはいつ辞めるか自分で決める権利がある。まだやるなら、この先いくつ積み上げられるか。二百勝が墓場にならないようにな。」

山本昌さんはその後50歳まで現役を続け、219勝を挙げられます。