以前、ChatGPTに「他者のために自分を犠牲する生き方から自分を大切にする生き方への転換を描いた物語を教えてください。」と訊ねた。

 そして、この最近も「何か目的のために自分の本心を周囲から隠す、偽装や擬態、韜晦(とうかい)する生き方を描いた物語を教えてください」と訊いてみた。

 その両方に上がってきたのがこの映画「アメリカン・ビューティー」(1999年、アメリカ)だった。

ChatGPTに訊ねた私の関心ごとに何かしらヒントを与えてくれる映画作品だと思った。

 偽装、擬態、韜晦(とうかい)に共通するのは偽り、ごまかしだ。
それぞれの辞書的な意味と私の解釈を添えよう。

 偽装は人の目をごまかすために、ある態度や行動をとったりすること。

一般的に言ってごまかすことだろう。

 擬態は動物が敵や餌になる生物からの発見を避けるため、形態、色彩、行動などを他の物や生物に似せること。

人間で言えば敵から身を守るためにごまかすことと解釈できるだろう。また、相手を欺き誘い出すことも。

 韜晦は自分の才能、地位、形跡などをごまかしてわからないようにすること。

それにははっきりとした意図、目的があり戦略的である。

 映画「アメリカン・ビューティー」に登場する人物には、それぞれに秘密、偽り、ごまかしがある。

それは、それほど特別なことではなく日常にあることだろう。

 偽り、ごまかしがあるからこそ、仕事、家庭生活、学校生活も表面上はうまくいっている。
その一方で、偽り、ごまかしにより表面上うまくいくことには犠牲も伴われる。


 では、偽りの反対である真実はこの映画にはないのか。
いや、真実は偽りと対になって表れる。
 

これは!というシーンが映画ラスト近くにある。


 レスターと娘の友達アンジェラが体を重ねよとする時、アンジェラの「初めてなの」というセリフにレスターは嘘を見破り、その行為を止めてしまう。

 気を削がれたレスターはアンジェラに服を着せ食事を与える。アンジェラも「腹ペコだったの」と本音を打ち明け、二人の間にリラックスした空気が流れる。

 このシーンはアンジェラの偽りが二人の真実に一瞬にして変わってしまうところである。

偽り、ごまかしが真実に反転するのである。

 そしてそのシーンの後、レスターは真実に満たされた気持ちになり、娘や妻と一緒に写っている写真を手に取り、ぎくしゃくした家族ともついに和解かと思った瞬間、またそこで反転が起こる。

 この映画のモチーフでありタイトルでもある「アメリカン・ビューティー」(薔薇の品種)という真っ赤なバラの花びらが真っ赤な血に変わってしまう。

隣の家に住む青年リッキーの父親フランクが銃でレスターの頭を撃ち抜いたのだった。

 その時、レスターの家で娘ジェーンと一緒に居たリッキーは、階下の銃声に気づいてレスターに駆け寄る。

 リッキーは、真っ赤な血を流しているレスターに、いつか見た凍死したホームレス女性を思い出し、神に見られているという視線、美を感じる。

 私はこのラストシーンを救いのない悲劇とは感じない。


 なぜなら、そこまでにこの映画は、偽りごまかしも真実に変わる瞬間があることを示し、それはまた満たされた気持ちや和解を呼び起こす。


 そして、偽りごまかしが真実に変わる瞬間は美にさえもつながることを表しているからだ。

 残された登場人物たち、レスターの妻キャロリン、娘ジェーン、その友達アンジェラ、リッキー、リッキーの母も、みんな偽り、ごまかしの人生の犠牲になっていたが、それから解放される予感がする。

 リッキーの父親フランクだけは心配だ。

 映画には描かれてないが、その後、リッキー他から明かされるであろう事の真相、真実に耐えきれず死ぬんじゃないかと。


 人は真実だけだと息苦しくなり、偽りごまかしに逃げ込む。と言って、偽りごまかしばかりだと、 この映画のように破綻する。

 

 偽りと真実の間での転換、反転が生きる上での極意なのだろうか。極意?美徳?
 

1.「マネー・ボール」との出会い
 

  直接にはChatGPTに「夢を叶えた人がその後どう生きるかを考えさせる映画を教えてください。」と問いかけたことだ。

その回答の1つが「ビリー・ビーンが夢を叶え、メジャーリーグのGMとして成功を収める物語です。夢を叶えた後の彼の挑戦や、その過程での人間関係の変化が描かれています。」だった。

 

 そして、偶然にもその問いかけをして数日後にBSテレビの映画番組でそれが放映されたことにもよる。また、いつも利用している市立図書館に原作の小説もあった。


  ChatGPTに何故そのような問いかけをしたのか。

それは「『ショーシャンクの空に』をもう一度みる」(高橋悟著)という本を偶然、職場の図書館で見つけたことによる。

 

 「ショーシャンクの空に」(1994年、アメリカ)は名作とされる映画である。

私がそれを最初に知ったのはテレビ番組(「ハリウッド白熱教室」)だ。

好きな俳優モーガン・フリーマンも出演していたこともあり、さっそくDVDを借りて観た。

 

 だが、私が気に入る映画とは思えなかった。なぜなら、暴力シーンが多いと感じたからだ。

それでも私がこの映画に惹きつけられたところは、主人公が刑務所の中で一目置かれた存在となり、20年もの間、刑務所長の裏金作りや脱出のためのトンネルを掘り続けた末に脱獄に成功したことだ。

 

 20年間、脱獄を夢見て秘密裏に事を進めていたことは、刑務所の中にいない人でも何かを夢見て努力を続ける人生そのものに思えたことだ。主人公は、そうやって夢を実現し、刑務所の外で過去を明かせないため別人(裏金の受取人、架空の人物)となって残りの人生を生きることになる。

 

 だが、その後、どういう人生を歩んだかは映画では描かれていない。
 

 「『ショーシャンクの空に』をもう一度みる」に戻ると、著者はその作品について様々な尺度をあて分析を試みているが、脱獄という夢や目標を成し遂げるところまでの論考となっているようだ。

 

 私は、その映画に描かれていない夢や目標を成し遂げた後、主人公はどう生きたのかというところが気になるし、それはその映画の隠された問いではないかとさえ思う。
 

 そこで「夢を叶えた人がその後どう生きるかを考えさせる映画を教えてください。」という問いになる。
 さて「マネー・ボール」は、その問いに応えるものであったのか。

2.映画に見られるその一片
 

  「夢を叶えた人がその後どう生きるか」が映画を観るポイントである。
 それにひっかかるところは、ラスト近くの「金で人生を決めない」「世界を変えられるかどうかだ」という旨のセリフだ。
 

 ビリー・ビーンは若い頃、多額の契約金でプロチームにスカウトされ選手となった。
そこで夢は叶えられているのである。だが、選手としては成功しなかった。
そして、引退しチームのゼネラルマネジャーとなり、まずまずの成功を収めている。
 

 さらに多額の契約金で他チームのゼネラルマネジャーに引き抜かれようとする。
そこで「金で人生を決めない」とオファーをキャンセルし、元のチームのゼネラルマネジャーとして挑戦を続けるのである。


 何に挑戦するかと言えば、無名の選手や他のチームで使い物にならないと棄てられた選手を拾い育て、勝ち抜くという「業界の常識を変えられるかどうか」だ。
 
 ビリー・ビーンは一度ならず夢を叶えている。その後、どうするかというと、別の夢に挑戦するわけではない。少なくとも別の夢を金を使って叶えるというようなことではない。

  夢の叶え方を変えているのである。次に原作の小説をヒントに、金ではない夢の叶え方について考えてみよう。

3.金に左右されない夢の叶え方
    (今日はここまで、つづく) 

VRおじさんは、なぜVR空間を求めるのか?

・現実世界ではそう簡単には行けない美しい風景のある場所や楽しい場所に行けるから。

以下、現実世界のという前置きを省略すると、
・煩わしさから逃れ、一人になれるから。
・自分の時間を誰にも邪魔されることなく独り占めできるから。
 (一人になれるからと同じ)
・自分とは違う自分になれるから。
第1話から第6話まで観たところで私が思うのはそのあたりか。

・ほか、現実世界では失敗が許されずチャレンジできないことがVR空間で練習できるとか。
それは私がVR空間で試そうと思うことで、ドラマのVRおじさんは思い至ってないようだ。
これから先、あるかもしれないが。

・それから、現実世界では会えない人に会えるとか。
それは平野啓一郎の小説「本心」で描かれているアイデアだ。

 で、そろそろ、私の趣味「プチ歩き遍路」に触れると、VRおじさんが、なぜVR空間を求めるのかとなぜ「プチ歩き遍路」するかが似通っている。

 私の趣味「プチ歩き遍路」とは海沿いの遍路道を2,3時間かけて歩くことである。その間、瀬戸内の美しい風景、不思議な風景に出会う。たまにはお祭りの露店など楽しい場所にも立ち寄る。

 

瀬戸内の美しい風景

 

不思議な風景



 その間、私一人だ。誰にも邪魔されない。犬の散歩をしている人とすれ違ったりするが、煩わしさも感じない。

 「プチ歩き遍路」の時の私は普通の格好をしており、白装束でもなければコスプレでもない。でも、ひょっとしたら、犬の散歩をしている人は、すれ違うとき「何、この人、なんでこんなところを一人で歩いているの?ヘンな人」と思っているかもしれない。その時、私は普段、職場で仕事をしている自分とは違う自分になっているかもしれない。 

 ここまで書いて、私が言いたいことはこうだ。
私はVRおじさんのようにVRゴーグルこそつけてはないが、VR空間を現実世界で実現させている。
「プチ歩き遍路」はそれほど特殊なことだろうか。
多くの人が現実世界に居ながらVR空間に近い体験をしているのではないか。
そうと気づかず、それこそが真の現実だと思って。

ここで一旦終わり。

これ以下、書きすぎ。
次回に繋げるため、消さずに残しておく。

 では、我々が真の現実だと思っている現実世界に生きることと、現実世界に居ながらVR空間に近い体験をすること、ドラマで描かれるようなパソコンゲームとしてのVR空間は地続きで大きな違いはないとすれば、真の現実だと思って生きている現実世界の辛さや、パソコンVR空間で得られる楽しみを相殺させる、相互に行き来させるなどして、生き易くなる、生きるのが楽になるなんてことはできないだろうか。現実と仮想の相互交流だ。それは既に宗教がその役割を担ってきたのかもしれない。