人並みのふり

第九回 削った名前

※本作はフィクションです。実在の人物の登場、会話、内面は創作です。

 翌朝、晴れていました。

 借りた傘を持って歩くには、少し都合の悪い天気でした。

 私は傘を畳み直し、留め具を掛けました。雨の日には誰も見なかった曲がった骨が、晴れた道では、自分の持ち物の欠点として見られるような気がしました。

 返しに行くのだと言えば済みます。しかし、道ですれ違う人は、私がどこへ行くのか尋ねません。

 私は傘を身体の後ろへ回して歩きました。

 隠すほどの物ではないのに、隠す動作をすると、隠したくなる物になりました。

 会館は閉まっていました。

 入口に、今日の利用予定が貼られていました。午後から体操教室。私は午前に来ました。

 電話をすれば、誰かが開けてくれるかもしれません。

 傘一本のために来てもらうのは悪いと思いました。

 同時に、来てもらえば、昨日早く帰ったことを、もう一度説明できると思いました。

 私は電話を出さず、傘を持って帰りました。

 明日、傘を返す。

 昨日書いた一行は、今日になっても、そのまま使えました。

     *

 帰り道の喫茶店に、又吉がいました。

 窓越しに見えました。

 私は店の前を一度通り過ぎました。

 約束もなく毎度会うのは、不自然ではないかと思ったのです。小説の中の出来事としても、少し便利過ぎる気がしました。

 しかし、私が勝手につくっている又吉なのですから、私に都合よく現れるのも仕方がありません。

 そう考えてしまうと、いよいよ店へ入れなくなりました。

 又吉に読んでもらいたい。

 その願いから現れた又吉が、私の原稿を読んだところで、誰の評価になるのでしょう。

 私は傘を握り直しました。

 曲がった骨の先が、畳んだ布を押していました。

 店の扉が開きました。

「こんにちは」

 又吉が立っていました。

 私は、見付かった、と思いました。

 隠れていたわけではありません。それでも、人のいる場所の前で逡巡していると、見付かるという形でしか会えなくなるのでした。

「傘、持ってるんですね」

「返しに」

「晴れてますもんね」

 それだけでした。

 私が気にしていたことは、その一言で済みました。

     *

 又吉は店を出るところでした。

 私は、少しだけ、と言いかけました。

 少しだけなら、相手の用事を止めてもよいような気がします。頼む側が先に時間を小さくすると、断る側が大袈裟に見えるからです。

「原稿は、進みました」

 私は報告だけにしました。

「そうですか」

「あなたが出ています」

「はい」

「勝手な話をさせています」

 又吉は私を見ました。

「小説ですからね」

 その返事に、私は安心しかけました。

 ところが続けて言われました。

「僕が言わなくても、その場面は書けますか」

 私は傘の持ち手を見ました。

 又吉が言えば、言葉に重さが付くと思いました。

 私が自分で気付いたこととして書けば、自分を賢く見せようとしているようです。しかし、受賞した作家に言われたことなら、私は教わった人になれます。

 どちらにしても、自分の立場を整えていました。

「あなたを出したかったんです」

「はい」

「太宰と、私と」

 私は三つの名前を、頭の中で並べました。

 一つは文学史の中にあり、一つは本の帯にあり、一つは私の封筒の裏にありました。

 並べるだけで、封筒の裏の名前まで、少し大きく見えるのでした。

「その三人が、会う話なんですね」

 又吉は言いました。

「まだ、会っていません」

 私は答えました。

 自分で言って、初めて気付きました。

 太宰と又吉は、まだ同じ場所にいませんでした。

     *

 家へ戻ると、太宰が原稿を読んでいました。

 赤い線の入った紙です。

「私は、よく喋りますね」

「ええ」

「あなたが困ると、だいたい何か言う」

 私は椅子へ座りました。

 原稿の中の太宰は、私の言い訳を見抜き、短い言葉を返します。又吉もそうでした。

 私は二人を呼んでおきながら、自分を叱る役をさせていました。

 叱られれば、自分で自分を褒めるより、ましな文章になると思ったのです。

 しかし、叱る言葉も、私が用意していました。

「嫌でしたか」

「私には、書き換える鉛筆がありません」

 太宰は机の三本を見ました。

 私は一本差し出しました。

 太宰は受け取りませんでした。

 私が差し出すことも、受け取らないことも、私が書けるのでした。

 その考えが、部屋の中へ薄く広がりました。

 椅子。上着。机へ置いた手。

 どれも私の知っているものから、つくられていました。

「それでも、話したかったんです」

 私は言いました。

 太宰は原稿を置きました。

「そこは、まだ書いていませんね」

     *

 午後、私は二人を同じ部屋へ呼びました。

 喫茶店でも書店でもなく、私の部屋でした。実際には、椅子が二つしかありません。

 私は台所から丸い椅子を持ってきました。

 座面に、熱い鍋を置いた跡がありました。

 太宰はいつもの椅子へ座り、又吉は丸い椅子へ座りました。

 私は立っていました。

 自分の部屋なのに、二人へ席を譲ると、自分の場所がなくなりました。

「何を話すんですか」

 又吉が尋ねました。

「私の小説を」

「まだ終わっていないそうですね」

 太宰が言いました。

「終わらせるために」

 私は机の紙を揃えました。

 又吉は丸い椅子に座り直しました。少し低かったようでした。

「その椅子、替わりましょうか」

「大丈夫です」

 私は、太宰に席を替わってもらおうかと考えました。

 けれども、死んだ作家を低い椅子へ座らせるのは失礼な気がしました。生きている作家には、既に座ってもらっていました。

 又吉が、鍋の跡を指でなぞりました。

「ここで書いているんですね」

「ええ」

「私も、ここでよく喋っています」

 太宰が言いました。

 又吉が太宰を見ました。

「読んでもらいたいんですね」

「私の本を、少しずつ読んでいるようです」

「太宰さんも、原稿を」

「私は登場していますから、読まないと困ります」

 二人は私を見ました。

 私は、いよいよ始まると思いました。

 文学の話。

 賞の話。

 私の作品の価値についての話。

「まず、座りませんか」

 又吉が言いました。

     *

 私はベッドの端へ座りました。

 座ると、二人より少し離れました。

「私は、太宰さんを救いたかったんです」

 以前にも言った言葉でした。

 今日は又吉が聞いていました。

「賞を取れなかったことを」

 私は続けました。

「それを、取り直せるような気がしたんです。私が書けば」

 太宰は口を開きかけました。

 私は待ちました。

 短く、痛い言葉を言うはずでした。

 ところが、何も出てきませんでした。

 私がまだ、言葉を用意していなかったのです。

 又吉も黙っていました。

 私は二人の沈黙を、深い理解として書きたくなりました。

 そうすれば、何も言われなくても、分かってもらえたことになります。

「本当は」

 私は話を続けました。

「落ちた後も、私だけが落ちたわけではないと、言いたかったのかもしれません」

 部屋の外で、自転車のブレーキが鳴りました。

 誰かが止まり、また走り出しました。

 太宰は机の紙を一枚めくりました。

「私の名前を置けば、私にも落ちてもらえる」

「そういうことに、なるかもしれません」

 私は指を組みました。

 又吉が、最初の頁を見ました。

「ここへ、太宰への献辞と書いてあります」

「はい」

「この話は、太宰さんが賞を取る話ですか」

 私は答えを考えました。

 初めはそうでした。

 今は、鉛筆を買い、卵を焼き、椅子を運ぶ男の話になっていました。

 その男は、太宰のために書くと言いました。

 しかし、太宰のことをほとんど知りませんでした。

「太宰の名前を使おうとした男の話です」

 私は言いました。

 言うと、二人をここへ呼んだ理由が、少し変わりました。

     *

 又吉は原稿を置きました。

「僕の名前も、使っていますね」

「はい」

「僕が褒めたら、この原稿は褒められたことになりますか」

 私は首を振りました。

 又吉は私が書いた人でした。

 首を振りながら、それでも、褒める場面を書きたいと思いました。

 読者が、架空だと分かっていても、少しはよい原稿だと感じるのではないか。

 そんな期待が残りました。

「あなたに、よいと言ってもらいたかったんです」

「どこがよいか、考えましたか」

「まだ」

「では、今は言えませんね」

 太宰が小さく笑いました。

「私には、悪いと言わせています」

 私は原稿を見ました。

 褒めてもらうことと、叱ってもらうこと。

 どちらも、私が自分をどう見せるかのために用意したものでした。

「二人とも、いなくした方がいいでしょうか」

 私は尋ねました。

 その質問には、いなくしないでよい、と答えてもらいたい気持ちがありました。

 太宰は返事をしませんでした。

 又吉も返事をしませんでした。

 私は、その沈黙を説明する文を書かずに、しばらく待ちました。

     *

 夕方、二人はいなくなりました。

 私は丸い椅子を台所へ戻しました。

 鍋の跡は、昨日と同じでした。

 原稿の最初へ戻りました。

 太宰治への敬意を込めた。

 その一行を赤で消しました。

 敬意がなかったとは言い切れません。しかし、その言葉で先に自分を守る必要はないと思いました。

 下へ書きました。

 私は、太宰治の名前なら、私の名前より先に読んでもらえると思った。

 そこまで書いて、止まりました。

 書けたことに満足するのが早過ぎました。

 私は続けました。

 又吉直樹に褒められる場面を書こうとした。実際には、誰にも読んでもらっていなかった。

 その一文を見て、机の端にある男の原稿への感想を思い出しました。

 私は、あの十二枚を読んでいました。

 読んだと言えるものが、一つありました。

     *

 夜になる前に、もう一度会館へ行きました。

 体操教室は終わりかけていました。

 入口で待ち、借りた傘を箱へ戻しました。

「あ、返しに」

 中から声がしました。

「ありがとうございました」

「助かりましたか」

「ええ」

 私は答えました。

 傘は箱に収まりました。

 持ち手の向きだけ直しました。

 そこへ私の名前は残りませんでした。

 帰り道、今のことを書こうと思いました。

 名前の残らない仕事。

 その言葉が浮かびました。

 私は覚えておこうとしました。

 信号が変わり、横断歩道を渡りました。

 向こう側へ着く頃には、別の言い方を考えていました。

 私はまだ、自分の名前を残すために、名前の残らない仕事を探していたのでした。