人並みのふり

第一回 代理人

※本作はフィクションです。竹内眞記雄、太宰治、又吉直樹を登場人物として描きますが、出来事、会話、人物の内面は創作です。

 人並みの人間になるには、まず、自分で鉛筆を買わなければならないと思いました。

 まことにつまらない決心です。六十五にもなって鉛筆一本を買ったくらいで人間になれるなら、文房具屋は毎朝、開店と同時に長蛇の列でありましょう。しかし、その日の私には、必要な物を自分で選び、自分の金で買い、レシートを受け取るという一連の動作が、ひどく立派な仕事に見えたのでした。

 私は竹内眞記雄と申します。

 名乗ると、いつも、その後に何かを付け足したくなります。作曲をしています。小説も書いています。思想についても書いています。これだけ並べれば、相手はどれか一つくらいには感心してくれるだろうという、浅ましい勘定があるのです。

 ところが文房具屋の女主人は、私の名前さえ尋ねませんでした。

「濃さは、どうなさいますか」

「普通ので」

「HBですか」

「ええ。普通の人が使うので」

 女主人は鉛筆の箱へ手を伸ばしかけ、私を見ました。私は急に、自分が何か大切な秘密を口走ったような気がして、財布を開きました。

 中には千円札が一枚ありました。

 一本でよかったのですが、私は三本買いました。一本では、すぐ諦める人と思われそうだったからです。女主人がそんなことを考えるはずはありません。それでも私は、三本の鉛筆を、継続する意志の証拠として差し出したのでした。

「消しゴムは」

「あります」

 ありませんでした。

 その嘘を訂正するためにもう一度口を開くのが面倒で、私は会計を済ませました。店を出てから、消しゴムを買い忘れたのではなく、消しゴムを持っている人物になりたかったのだと気付きました。

 私は、そういう嘘をつきます。

 大きな嘘よりも、小さな嘘を丁寧に積み上げます。積み上げているうちに、自分の立つ場所だけが少し高くなり、降り方が分からなくなるのです。

 帰り道の公園で、私はベンチに座り、買ったばかりの鉛筆を袋から出しました。三本とも尖っていました。ありがたいことでした。鉛筆削りも持っていなかったのです。

 その鉛筆で、私は太宰治に芥川賞を取らせるつもりでした。

 ここで笑っていただいて構いません。私も、少し笑いました。ただ、自分の考えを自分で笑うと、他人から先に笑われずに済むような気がするので、あの笑いを、反省と呼ぶわけにはいきません。

 私は太宰治の小説を読んだことがありませんでした。

 大学受験のために文学史を覚えたことはあります。作品名を人名につなぎ、人名を時代につなぎました。線を引けば点が取れる世界でした。どんな顔で書いたのか、どこで文章をやめて窓を見たのか、そうしたことは、試験には出ませんでした。

 太宰治が芥川賞を欲しがっていたことは知っていました。

 それなら私が、と考えたのでした。

 なぜ、それなら、なのか。

 その肝心なところを飛び越えて、私はもう、受賞後に述べる言葉まで用意していました。

 これは私の受賞ではありません。太宰治の受賞です。私は代理に過ぎません。

 たいへん謙虚な言葉です。言うところを想像すると、胸のあたりが暖かくなりました。人々は、その謙虚な代理人の名を尋ねるでしょう。私は、そこで初めて、竹内眞記雄と名乗るつもりでした。

 鉛筆の袋を膝に置いたまま、私はしばらく、足元の蟻を見ていました。

 蟻はパン屑を運んでいました。自分より大きなものを引きずって、途中で向きを変え、また引きずっていました。その仕事に誰の名前が付くのか、蟻は気にしていない様子でした。

     *

 その晩、私は紙の一番上に、太宰治、と書きました。

 その下に、代理、竹内眞記雄、と書きました。

 代理の字が、思っていたより大きくなりました。書き直したかったのですが、消しゴムがありません。私は紙を裏返しました。

 裏には、電気の使用量が印刷されていました。

 原稿用紙を買っていなかったのです。

 私は鉛筆を三本も買いながら、書く紙のことを忘れていました。そのことが、賞を取るためには少し不利であるように思われました。しかし、家には紙がありました。広告も、封筒も、病院でもらった予定表もありました。裏が白ければ、どれでも文章は書けます。

 そのように考えると、私は急に、自分が貧しくても志を失わない人物になった気がしました。

 机の上に広告を一枚置きました。

 表では、知らない夫婦が新しい台所の前で笑っていました。私はそれを裏返し、まず一行目を書こうとしました。

 書けませんでした。

 どうも、太宰治は、私の中から出てきませんでした。

 私は人を助けることについてなら書けます。判断についても書けます。自分の生活を保つことの大切さも、説明できます。しかし、その晩の私は、一行目を書けない自分に、どんな言葉をかけたらよいのか分かりませんでした。

 鉛筆を替えてみました。

 二本目でも駄目でした。

 三本目は、使わずに置きました。一本くらい、まだ役に立つ可能性を残しておきたかったのです。

「私が死んでいるから、書けないのですか」

 向かいの椅子から声がしました。

 男が座っていました。

 椅子の背に上着を掛け、私の広告の裏を見ていました。私はその顔を知っているつもりでしたが、知っているのは写真でした。写真の男が、部屋の椅子に座ると、ずいぶん痩せて見えました。

「太宰さんですか」

「そう書いてあるので」

 男は、私が名前を書いた紙を指しました。

 夢だと思いました。夢なら、もっと立派な机を用意してくれてもよさそうなものですが、部屋はいつもの部屋でした。窓際には干した靴下があり、椅子の片方の脚には、折った段ボールを挟んでいました。

「私は、あなたに芥川賞を」

「ええ。そこまでは聞きました」

「取っていただきたいのです」

「あなたが書くのですか」

「私が書きます」

「私の名前で」

「もちろん、本当の作品だとは言いません。献辞です。代理です」

 太宰は、黙って私を見ました。

 私は代理という言葉を、もう一度言いたくなりました。言えば言うほど、何かの責任を免れられるような気がしたのです。

「私の本は」

「まだ読んでいません」

 私は早口で答えました。責められる前に認めれば、その正直さを少し評価してもらえるかもしれません。

「読まずに、私の続きを」

「挑戦です」

 太宰は広告を持ち上げました。裏返すと、台所の前の夫婦が現れました。

「この人たちの続きでも、いいのではありませんか」

「この人たちは、誰だか分かりません」

「私なら、分かるのですか」

 私は、鉛筆の先を見ました。

 昼間にはあんなに立派だった三本が、机の上では、ただの三本でした。

     *

 翌日、駅前の書店へ行きました。

 まず太宰の本を買うつもりでした。

 ところが入口の平台に、又吉直樹の本がありました。帯には賞の名前がありました。私はその文字に、腹を立てるほどではない、しかし祝福とも違う気持ちを持ちました。

 又吉さんを嫌いなわけではありません。

 私は、会ったことのない人に対して、ときどき、自分が遅れていることの責任を少し負ってもらいたくなるのです。

 本を手に取ると、背後から、

「重いですか」

 と声がしました。

 振り向くと、又吉直樹が立っていました。

 私は驚きませんでした。昨夜、死んだ作家が来たのですから、生きている作家が書店にいるくらいは、順序として自然でした。それに、驚くと、本を落としそうでした。

「本のことですか」

「持ったまま、ずっと動かないので」

「考えていました」

「そうですか」

 又吉は、それ以上、何を考えていたのか尋ねませんでした。

 私は、その親切が少し困りました。尋ねてもらえば、答える形で自分の計画を説明できたのです。こちらから始めると、宣伝になります。

「私は太宰治に、賞を取らせようと思っています」

 結局、宣伝しました。

 又吉は私の持っている本を一度見て、それから私を見ました。

「小説を書くんですか」

「太宰に代わって」

「どういう話ですか」

「太宰らしい話です」

「何が起こるんですか」

 私は答えられませんでした。

 太宰らしいことが起こるのです。そう言いたかったのですが、それでは何も答えていないと、自分でも分かりました。

「男が一人います」

「はい」

「その男は、人並みに生きようとします」

「何をするんですか」

「人並みのふりをします」

 又吉は、少し待っていました。

 その待ち方には、私がもう一言付け加える場所がありました。私はいつも、沈黙を埋めるために大きなことを言います。しかし、そのときは、男が何をするのかを言わなければいけませんでした。

「鉛筆を買います」

「鉛筆」

「一本でいいのに、三本買います」

「どうしてですか」

「続ける人だと思われたいからです」

 又吉はうなずきました。

「誰に」

「店の人に」

「店の人は、何か言いましたか」

「濃さを聞きました」

 話しているうちに、私は少し困りました。

 小説にするほどではないと思っていた昨日の買物が、賞を取る計画より、ずっと説明しやすかったのです。

 又吉は、平台の本を一冊、並べ直しました。誰かが斜めに置いた本でした。

「太宰の名前は、最初から出るんですか」

「出ます」

「その男は、太宰がいなくても鉛筆を三本買いますか」

 私は、はい、と言いました。

 言ってから、何かを失ったように感じました。

 太宰がいなくても、私は昨日、同じ買物をしたでしょう。消しゴムを持っていると嘘をつき、原稿用紙を買い忘れたでしょう。そのみっともなさには、太宰の名前を借りる必要がありませんでした。

「太宰を出してはいけませんか」

「それは、僕には決められません」

 又吉は言いました。

 その返事を聞くまで、私は、この人から許可をもらおうとしていたのでした。

 受賞した人が頷けば、まだ書いていない私の作品にも、何かが移るような気がしていました。

 私は手の中の本を平台に戻しました。

 又吉は私を引き止めませんでした。勧めも、励ましもしませんでした。少し会釈をして、棚の向こうへ歩いていきました。

 私は太宰の文庫を一冊買いました。

 店員から、カバーを掛けるかと尋ねられました。

「お願いします」

 誰の本を読んでいるのか、電車で人に知られたくなかったのです。それなのに、太宰が蘇ったと思わせる小説を書きたかったのです。

     *

 帰宅すると、昨夜の広告が机にありました。

 太宰の椅子は空でした。

 私は文庫を置き、広告の裏に、昨日の買物を書きました。

 鉛筆を三本買ったこと。消しゴムについて嘘をついたこと。原稿用紙を忘れたこと。

 途中で、私は文房具屋の女主人を、私の孤独を見抜いた人にしようとしました。その方が、文学らしくなると思ったからです。

 けれども女主人は、濃さを尋ねただけでした。

 私はその一文を線で消しました。

 消しゴムがなくても、文章は取り消せました。ただ、取り消したことが残りました。

 そこへ電話が鳴りました。

 画面には、見知った名前が出ていました。出れば、食事のことや、明日の予定を尋ねられるでしょう。私は今、小説を書いていると説明しなければなりません。

 太宰治の代理として。

 その言葉を思い浮かべると、さっき消した一文が目に入りました。

 電話は鳴り続けていました。

 私は鉛筆を置き、通話の印を押しました。

「何してたの」

「書いていました」

「何を」

 向かいの椅子で、段ボールを挟んだ脚が小さく鳴りました。

 私は空の椅子を見ました。

「自分のことを、少し」

 そう答えると、相手は、

「ご飯は食べた?」

 と尋ねました。

 私は、まだです、と言いました。

 それは、訂正しなくてよい返事でした。