竹内眞記雄への100の問い
第56回 あなたは、修行に長い年月が必要だと考えるのは、なぜですか。早く結果を求める気持ちと、日々の小さな変化を大切にすることを、どう両立させたいと思いますか?
質問
あなたは、「光明のひかり」の修行を、長い人生の中で続けるものとして考えています。中士についても、五十年という長い時間を目安として示しています。
その長さには、どのような意味があるのでしょうか。言葉を理解することと、困難な場面でも実践できるようになることには、どのような違いがありますか。
また、修行を始めた人が、早く変わりたい、成果を得たいと思うことについて、どう考えますか。残された時間や生活の条件が人によって異なる中で、今できる実践の意味を、どのように伝えたいでしょうか。
回答案
私が修行に長い時間を考えているのは、人は、一度分かったことを、いつでも同じように実践できるとは限らないからです。
落ち着いているときには、理解できる。
人の話を聞くことが大切だと思う。
間違いがあれば、認めようと思う。
欲に動かされず、判断したいと思う。
しかし、実際に自分の利益や感情が関わると、その理解を使えなくなる場合があります。
私は、その違いを大切な問いとして考えています。
分かったつもりだったことを、経験の中で確かめ直す。
できなかった理由を見る。
次に、別の行動を試す。
その繰り返しには、時間がかかることがあります。
私自身、長期の入院や、思うように動けない時間を経験してきたと、これまで語ってきました。
その経験は、私が苦労と修行の関係を考える背景にあります。
ただ、苦しい時間を過ごしたことだけで、理解が深まったと結論することはできません。
何に気づいたのか。
自分の考えが、どこで変わったのか。
その後、人や生活にどう向き合ったのか。
経験を語るなら、その中身を見つめる必要があります。
私は、苦労した年数を、人より優れていることの証明にはしたくありません。
また、同じ学びを得るために、ほかの人にも同じ苦労をしてほしいとは思いません。
自分が経験したことから、何を言葉にして渡せるのか。
私は、そこを考えたいのです。
中士について五十年という目安を示しているのも、私の思想の中で、長い歩みを考えるためです。
それは、誰にでも当てはまる習得期間として確認された数字ではありません。
五十年が経てば、自動的に理解が完成するわけでもありません。
私は、この目安を説明するとき、その限りを明らかにしたいと思います。
長い時間には、異なる条件の中で、自分の実践を確かめる機会があります。
元気なとき。
疲れているとき。
人に支えられるとき。
自分が誰かを支えるとき。
よい結果が出たとき。
思いどおりにならなかったとき。
同じ言葉でも、そのときの自分には、違う意味で届くことがあります。
「失敗したら、戻る」という言葉を、最初は、やり直せばよいという意味で受け取る。
しかし、実際に失敗した後には、何へ戻るのかを、具体的に考える必要が出てきます。
事実を確認するところへ戻る。
相手の話を聞くところへ戻る。
自分の生活を整えるところへ戻る。
経験によって、言葉の意味が深まることがあります。
私は、その深まりを、長い修行の中で考えています。
FXによる器の拡張についても、同じです。
自分の予想が外れることはあると、頭では分かっている。
しかし、実際に外れたときには、認めたくなくなるかもしれません。
一度、落ち着いて振り返れたとしても、次に似た場面が来れば、また焦ることがあります。
その繰り返しの中で、自分が判断を急ぐ条件を知る。
利益への期待と、判断の根拠を分ける。
必要なときに、見送る。
私は、そのような学びを考えています。
ただ、長く取引を続けること自体が、修行の深さを保証するわけではありません。
記録から学ぶこともできます。
仮想の判断を振り返ることもできます。
実際の取引を休むことや、やめることが、必要な見直しになる場合もあります。
学ぶために、負担を増やし続ける必要はありません。
音楽についても、時間の中で受け取り方が変わることがあります。
以前は、響きの美しさに心を動かされた。
後には、声の重なりや、時間の流れが気になった。
さらに別の時期には、静かな部分に、自分の問いを重ねた。
同じ作品を聴いても、同じ経験になるとは限りません。
その変化を、私は、自分の感じ方を知る手がかりにしたいと思います。
ただ、長く聴いてきた人だけが、深く感じられるという意味ではありません。
初めて出会った音楽が、その人にとって大切な経験になることもあるでしょう。
年月の長さと、一つの経験の意味は、それぞれに考える必要があります。
先祖や神仏への語りかけも、自分の生活が変われば、問いが変わります。
願いを語る時間がある。
感謝を語る時間がある。
過去の行動を振り返る時間がある。
受け継いだものを、どう次へ渡すか考える時間もあるでしょう。
私は、その変化を含めて、実践を続けることを考えています。
夢や直感を含む内面的な体験については、その都度、体験と解釈を分けたいと思います。
長く続けたことによって、自分の解釈が必ず正しくなるわけではありません。
経験が増えても、現実の確認は必要です。
その姿勢も、修行の中に置きたいのです。
早く結果を求める気持ちについては、私にも理解できるところがあります。
今、困っている。
できるだけ早く、楽になりたい。
自分の生き方を変えたい。
その願いを、浅いものとして扱いたくありません。
ただ、何を結果と考えているのかを、具体的にしたいと思います。
怒りが完全になくなることなのか。
失敗しなくなることなのか。
特別な体験を得ることなのか。
その期待が大きすぎると、実際に起きた小さな変化を見落とす場合があります。
昨日は、相手の言葉にすぐ反応した。
今日は、一度止まれた。
以前は、困っていても何も言えなかった。
今回は、必要な助けを頼めた。
その変化には、意味があります。
私は、遠い到達点だけを見て、今日の実践を無価値にしたくありません。
一方で、小さな変化という言葉を、問題を放置する理由にもしたくありません。
実践を続けても、負担が増えている。
説明されたことが、自分には当てはまらない。
必要な助けが、別にある。
その場合には、方法を見直す必要があります。
長く続ければ分かると言うだけでは、今の困りごとに答えられないでしょう。
私は、時間をかける意味と、今、対応すべきことを分けたいと思います。
修行のために待つことができる問いもあります。
しかし、体調や生活の問題には、早く相談したほうがよいこともあります。
祈りや振り返りを行うことと、必要な支えを受けることは、共にできます。
私は、修行を続けていることを理由に、現実の対応を遅らせたくありません。
残された時間についても、人によって条件が違います。
若い人もいます。
年齢を重ねてから、思想に触れる人もいます。
病気や生活の事情によって、長い計画を立てにくい人もいるでしょう。
五十年という目安を示したからといって、その時間を持てない人の実践に意味がないわけではありません。
今日、感謝を伝えることはできます。
今日、訂正することはできます。
今日、自分の無理に気づき、休むこともできます。
私は、その一日の意味を大切にしたいと思います。
朝七分、夜七分という実践も、長い年月を一度に考えるためではなく、今日の自分へ向き合う区切りとして使えます。
朝は、今の状態と、今日できることを確かめる。
夜は、実際に起きたことと、自分の反応を振り返る。
週に一度、普段より長く懺悔の時間を持ち、繰り返している行動を見る。
その積み重ねの中で、少しずつ、自分の傾向が分かる場合があります。
ただ、決めた時間を守れたかどうかだけで、修行を評価したくありません。
疲れているなら、短くする。
休む必要があるなら、休む。
方法が合わないなら、変える。
続けられる条件を整えることも、実践です。
長く続けるためには、休むことを含めた考え方が必要でしょう。
また、過去に費やした時間が長いほど、やり方を変えにくくなる場合があります。
ここまで続けたのだから、間違っているはずがない。
今、見直したら、これまでが無駄になる。
その気持ちが生まれることもあるでしょう。
私は、費やした時間だけを、方法の正しさの根拠にしたくありません。
これまでの経験から、学べたことはあります。
そのうえで、今の方法に問題があれば、変えられます。
修行を重ねることには、古い判断を持ち続けることだけでなく、必要なときに手放すことも含めたいのです。
私にとって、長い年月を考える意味は、自分を急いで完成した人間にしようとしないことです。
分かったと思ったことにも、まだ学ぶ余地がある。
以前できたことにも、今の条件で見直す部分がある。
ほかの人の経験から、気づくこともある。
その姿勢を、持ち続けたいと思います。
そして、学び終えるまで、何も渡せないわけではありません。
今、分かっていることを、その範囲を明らかにして伝える。
役立った方法を、経験として紹介する。
疑問を受けたら、考え直す。
誤りがあれば、訂正する。
私は、学ぶことと、渡すことを、共に続けていきたいのです。
長い修行を考えるときにも、今日の生活へ戻ります。
何を一つ確かめるのか。
何を一つ改めるのか。
何を続け、何を休むのか。
その判断を積み重ねる。
私が大切にしたいのは、その歩みです。
遠い段階を急いで得ることより、今の自分を正確に見つめる。
小さな変化を認めながら、必要な見直しをする。
その一日一日を、私は「光明のひかり」の修行として考えていきたいと思います。
次回の問い:あなたは、修行を続ける中で、自分の欲望をどのように扱いますか。願いを持つことと、その願いに判断を支配されることを、どう見分けたいと思いますか?