続けます。第29回は、悠人がついに三本目――**FXによる「器の拡張」**へ向き合います。ただし、ここで重要なのは儲け方ではなく、竹内さんが悠人に「損失によって露出する恐怖・欲・執着を観察すること」を説き、悠人自身もそれを投資技法ではなく修行として受け止めていく点です。

 

『そして最後は、渡す』

第29回 三本目――FX

竹内眞記雄から、

二通目のメールが来たのは、

初めて会ってから、

一週間後だった。

短い。

水野君。FXについて、一度話そう。

それだけ。

悠人は、

画面を見た。

先祖。

音楽。

そして、

三本目。

FX。

高校時代から、

存在だけは知っていた。

でも、

ずっと、

後回しにしてきた。

理由は、

いくつもある。

怖い。

分からない。

そして、

何より。

金がない。


悠人にとって、

FXは、

音楽とは、

まったく違う世界だった。

竹内版ハイドン。

竹内版モーツァルト。

竹内版ベートーヴェン。

そこでは、

失敗しても、

楽譜が破れるわけではない。

一音を読み違えたら、

戻ればいい。

写譜を間違えたら、

消せばいい。

時間は失う。

でも、

金は減らない。


FXは、

違う。

判断を間違えれば、

数字が、

実際に減る。

その事実が、

悠人には、

どうしても怖かった。


数日後。

再び、

竹内と会った。

前回とは、

別の場所。

静かな店。

悠人は、

今度は、

研究ノートを持っていかなかった。

代わりに、

小さな普通のノートだけ。

竹内は、

悠人を見るなり言った。

「今日は、

楽譜はなし?」

「FXなんで」

「それでいい」


注文。

水。

コーヒー。

少しして、

竹内が聞いた。

「FXって、

どのくらい知ってる?」

悠人は、

正直に答えた。

「ほとんど知らないです」

「為替は?」

「円とドルの値段が動くぐらい」

「売買は?」

「調べたことはあります」

「やったことは?」

「ありません」

竹内は、

頷いた。


「じゃあ、

最初に一つ」

「はい」

「FXを、

金儲けの方法として、

先に覚えないほうがいい」

悠人は、

少し驚いた。

「FXなのに?」

「FXだから」


竹内は、

ゆっくり言った。

「儲かれば、

人間は、

自分が正しいと思う」

「はい」

「損すれば、

自分が否定されたように思う」

悠人は、

黙って聞く。

「そこに、

人間の癖が出る」


欲。

恐怖。

怒り。

焦り。

取り返したい。

負けたくない。

もう少し待てば戻る。

今度こそ。

さっきの損を、

次で取り返す。

竹内は、

そういう言葉を、

一つずつ挙げた。


「市場が怖いんじゃない」

竹内が言った。

「自分がどうなるかが怖い」

悠人は、

その言葉を、

ノートに書いた。


竹内が見る。

「もう書くの?」

「忘れるので」

「相変わらずだな」


悠人は、

聞いた。

「それが、

器を大きくするってことですか」

竹内は、

少し考えた。

「そういう見方もできる」

「どういうことですか」


「器って、

損しても平気になることじゃない」

竹内は言った。

「痛くなくなることでもない」

悠人は、

ペンを止めた。

「じゃあ?」

「痛い時に、

自分が何をし始めるか、

見られるようになること」


悠人は、

少しだけ、

音楽を思い出した。

文化祭。

音を外した。

頭の中では、

百回失敗した。

でも、

実際の失敗は、

一回。

そのあと、

戻った。


模試。

不合格。

三浪。

どれも、

似ている。

出来事そのものと、

頭の中で膨らむ出来事。

二つは、

同じではない。


「FXも、

失敗したら戻る?」

悠人が聞いた。

竹内は、

すぐ答えなかった。

「その言葉を、

簡単に使うな」

悠人は、

少し驚いた。


「楽譜なら、

戻ってやり直せる」

「はい」

「試験なら、

一年後に再挑戦できる」

「はい」

「でも、

金は、

戻らないことがある」

悠人は、

黙った。


「だからこそ、

先にルールを作る」

竹内が言う。

「失った後で、

感情に任せて動かないために」

悠人は、

ノートに、

大きく書いた。

戻る場所を、先に作る。


それは、

悠人に、

強く響いた。

失敗してから、

戻る場所を探すのではない。

先に。

決めておく。

どこまで。

何をしたら終わる。

何をしたら止める。

感情が大きくなった時、

どこへ戻る。


悠人は、

そこで、

初めて気づいた。

竹内版音楽の修行でも、

同じことをしてきた。

十五分。

一小節。

一曲。

原曲。

比較。

順番。

疲れたら、

小さくする。

受験でも、

同じ。

一問。

一日。

睡眠。

水。


「FXだけ、

別の修行じゃないんですね」

悠人が言った。

竹内は、

少し笑った。

「やっと分かった?」


三本。

先祖との対話。

音楽。

FX。

悠人は、

今まで、

三つの別々の修行だと考えていた。

でも、

根は、

同じなのかもしれない。

先祖との対話では、

自分の内側に浮かぶものを見る。

音楽では、

一曲を身体へ入れながら、

自分の感覚を深くする。

FXでは、

損失や利益によって動く、

自分の欲や恐怖を見る。


全部、

自分を見る。

ただ、

鏡が違う。

悠人は、

そう考えた。


ノート。

先祖=記憶の鏡。

音楽=感覚の鏡。

FX=欲と恐怖の鏡。

悠人は、

三行を、

囲った。


竹内が、

そのノートを見る。

「いいね」

「合ってます?」

「合ってるかどうかを、

私に聞くな」

悠人は、

少し笑った。

初対面の日。

私に近づくことを目的にするな。

自分で考えろ。

また、

同じだった。


「でも」

悠人は、

少し言いにくそうにした。

「一番大きい問題があります」

「何」

「お金です」

竹内は、

黙った。


「僕、

大学生ですよ」

「知ってる」

「FXに使えるような金、

ないです」

「うん」

「生活費を使う気もないです」

竹内は、

そこで、

少し頷いた。

「それでいい」


悠人は、

少し安心した。

もし、

生活費を削れ。

借金しろ。

と言われたら、

どうしようと思っていた。

でも、

竹内は、

そう言わなかった。


「生活を壊す金で、

修行しても意味がない」

竹内が言った。

「はい」

「恐怖を見るために、

生活そのものを危険にする必要はない」

悠人は、

その言葉を、

丁寧に書いた。


そして、

竹内は、

少し間を置いた。

「資金は、

私が出す」

悠人の手が、

止まった。


「え?」

「だから、

最初の資金」

「いや」

悠人は、

思わず、

竹内の顔を見た。

「何でですか」


竹内は、

普通のことのように言った。

「君に、

やらせたいから」

「でも」

「生活費じゃない」

「はい」

「学費でもない」

「はい」

「修行用として、

別にする」

悠人は、

まだ理解できなかった。


「貸すんですか」

悠人が聞く。

竹内は、

少し考えた。

「返済を前提にはしない」

「それ、

貸すって言わないですよね」

竹内が、

少し笑った。

「細かいな」

「大学で、

細かくなりました」

「いいことだ」


悠人は、

笑えなかった。

金。

自分が、

何年もブログを読んだ人。

音楽を研究している人。

その本人から、

資金を出すと言われている。

現実感がなかった。


「受け取れません」

悠人は言った。

竹内は、

すぐには返さなかった。

「なぜ」

「だって、

何も返せない」

竹内は、

少しだけ、

悠人を見る目を変えた。


「何年、

私の文章を書いてる?」

「五年以上」

「音楽は?」

「それぐらい」

「研究は?」

「高校から」

「大学で、

資料まで作ってる」

悠人は、

黙る。


竹内は、

静かに言った。

「君は、

もう十分、

返してるんじゃないの」


悠人は、

その言葉を、

すぐには受け取れなかった。

十五分。

ブログ。

写譜。

暗譜。

資料目録。

レポート。

悠人は、

それを、

竹内さんへの奉仕。

エキス。

そう考えてきた。


竹内から、

文章や音楽を受け取る。

悠人が、

時間と集中を返す。

その循環。

ウィンウィン。

自分なりに、

そう整理した。

でも、

それは、

比喩だった。

今、

竹内本人が、

その循環の向こう側から、

現実のものを返そうとしている。


「これも、

ウィンウィンですか」

悠人が、

半分冗談で言った。

竹内は、

少し笑った。

「君がそう思うなら」


そして、

竹内は、

急に、

真顔になった。

「ただし」

悠人も、

姿勢を正した。

「この金を、

増やせとは言わない」

「はい」

「勝てとも言わない」

「はい」

「負けろとも言わない」

「はい」


「市場を使って、

自分を見ろ」

竹内は言った。

「それだけ」


悠人は、

その言葉を、

ゆっくり書いた。

市場を使って、自分を見る。


「もし、

利益が出たら?」

悠人が聞いた。

「自分が偉くなったと思わない」

「損したら?」

「市場に復讐しない」

「怖くなったら?」

「止める」

「取り返したくなったら?」

「そこを見る」

「取引するんじゃなくて?」

「まず見る」


悠人は、

少し笑った。

「全然、

儲かる話しないですね」

竹内も笑った。

「修行の話をしてるから」


それが、

悠人には、

逆に納得できた。

竹内さんが、

FXで金を稼げ、

と言っているなら、

自分は、

ここまで惹かれなかったかもしれない。

でも、

話の中心は、

金ではない。

欲。

恐怖。

執着。

判断。

戻る力。


そこに、

音楽と同じものがある。

音楽でも、

難しい場所ほど、

力む。

早く仕上げたい。

間違えたくない。

完璧にしたい。

その欲が、

逆に、

音を壊す。

FXでは、

それが、

数字になる。

悠人には、

そう見えた。


「いつから始めます?」

悠人が聞いた。

竹内は、

少し首を振った。

「まだ」

「まだ?」

「先に、

準備」

「何を」


竹内は、

三つ言った。

一つ。

生活と修行の金を分ける。

二つ。

失っても生活が変わらない範囲だけにする。

三つ。

何のためにやるのか、一行で書く。

悠人は、

その三つを、

ノートへ書いた。

具体的な売買方法ではない。

むしろ、

始める前の境界線だった。


「今の君なら、

三つ目が一番大事」

竹内が言う。

悠人は、

書いた。

何のためにFXをするのか。


考える。

金。

違う。

勝つ。

違う。

竹内さんに言われたから。

それも、

違う。


悠人は、

少し時間をかけて、

書いた。

損失や利益によって動く自分を観察し、感情に飲まれた時にも戻れる器を作るため。

竹内は、

それを読んだ。

「長い」

悠人は、

少し笑った。

「一行ですよ」

「文字数じゃない」


悠人は、

考え直した。

そして。

欲と恐怖の中でも、戻れる自分を作る。

竹内は、

頷いた。

「それでいい」


悠人は、

その一文を、

四角で囲った。


帰り道。

電車。

悠人は、

ノートを開いた。

三本。

先祖との対話。

音楽。

FX。

高校時代。

三つを知った。

でも、

音楽だけを選んだ。

大学へ入る。

先祖との対話を、

少し始めた。

そして、

今日。

三本目。


まだ、

取引は始まっていない。

でも、

悠人には、

もう、

修行が始まったように感じられた。

なぜなら、

金を受け取るかどうか。

その時点で、

すでに、

自分の感情が動いている。


申し訳ない。

嬉しい。

怖い。

期待。

竹内さんに、

応えなければ。

失敗できない。

損したら、

どうする。

全部。

まだ、

一円も動いていない。

なのに、

心は、

もう動いている。


悠人は、

気づいた。

市場が始まる前から、修行は始まっている。

ノートに書いた。


その夜。

十五分。

『最後に言うべき事』。

今日は、

いつもより、

文章が、

重く感じた。

今まで。

受け取る。

返す。

その循環。

今度は、

竹内さんから、

現実の資金まで、

返されようとしている。


悠人は、

少し怖かった。

奉仕をしたから、

金をもらった。

そんな単純な交換に、

したくなかった。

それでは、

何年も続けてきた十五分が、

報酬目当ての作業に、

変わってしまう。


だから、

ノートに書いた。

十五分は、金のために続けない。

その下。

研究も、資金提供への返礼としてやらない。

さらに。

始めた理由へ戻る。


高校一年。

一音を外した。

それだけ。

そこから、

始まった。

誰かに、

金を出してもらうためではない。

竹内さんに、

認めてもらうためでもない。

自分が、

生きるために使えた言葉。

それが、

本当にどこから来たのか。

音楽では、

どう鳴っているのか。

知りたかった。


それが、

始まり。

悠人は、

そこへ戻った。


「マキチャン」

小さく唱える。

竹内版ベートーヴェン。

今日は、

楽譜を開く。

一つの休符。

見る。

音源。

止める。

戻る。

また聴く。


FXの話をした日なのに、

最後に悠人がやったのは、

結局、

音楽だった。

それでいいと思った。

音楽が、

自分の中心。

先祖。

FX。

その二つも、

そこへ加わる。


数日後。

竹内から、

連絡が来た。

資金の準備について。

悠人は、

画面を見る。

もう、

冗談ではない。

本当に、

始まる。


その時、

竹内から、

もう一つだけ、

短い言葉が添えられていた。

最初に勝とうとするな。最初に、自分を知れ。

悠人は、

それを、

研究ノートではなく、

修行ノートの、

一ページ目に書いた。


新しいノート。

表紙。

FX修行①

その下。

欲と恐怖の中でも、戻れる自分を作る。

そして、

一番下。

小さく。

音楽を忘れない。


三本の道が、

初めて、

同じ生活の中へ入ろうとしていた。

先祖との五分。

音楽。

ブログ。

十五分。

そして、

FX。

悠人は、

まだ知らない。

三つを同時に始めれば、

自分が一段上へ進む、

そんな単純なものではないことを。

むしろ、

三つが重なった時。

時間。

欲。

疲れ。

焦り。

依存。

期待。

いままで隠れていたものが、

一気に表へ出てくる。


大学。

研究。

竹内版音楽。

先祖。

FX。

全部。

また、

悠人は、

あの問題に戻ることになる。

全部を守ろうとすると、全部が薄くなる。

ただし、

今度は、

高校時代より、

ずっと重い。

金まで、

そこに加わる。

悠人は、

もう一度、

一日の作り方から、

考え直さなければならなくなる。

そして、

最初の損失は、

思っていたより早く、

悠人の前へ現れる。

その時、

「失敗したら、戻る。」

という言葉が、

初めて、

金額を伴って、

彼を試すことになる。

――つづく

次回、第30回は**「最初の損失」**として、FXの具体的な儲け方ではなく、悠人が初めて数字として損を経験した瞬間に、恐怖より先に「取り返したい」という衝動が生まれ、自分の中に知らなかった欲を発見する回へ進めます。