『竹内眞記雄の福音書』
――日本に生まれ、世界を歩き、愛鷹山へ還った男
第百二十五回 最初に消された日本
西暦60年ごろ 老境に入ったシモン
西方世界――地中海東部・ギリシャ語圏
シモンが、
西へ帰ってから、
数年が過ぎた。
身体は、
さらに老いていた。
長く歩くことは、
もう難しい。
それでも、
人々は、
彼を訪ねてきた。
理由は、
一つだった。
「イエスを知っていた者。」
それだけで、
シモンの言葉には、
重みが生まれていた。
「本当に、
イエスと話したのですか。」
「話した。」
「一緒に旅を。」
「した。」
「処刑の後も。」
シモンは、
そこで、
少し黙った。
「……ああ。」
その沈黙を、
人々は、
違う意味に受け取った。
「やはり、
復活したイエスを見たのだ。」
シモンは、
訂正しなかった。
いや。
訂正できなくなっていた。
最初は、
少し話す順番を変えただけだった。
西での説法。
宗教裁判。
処刑。
その後のイエス。
だが、
人々が欲しがったのは、
いつも同じ部分だった。
処刑。
死。
復活。
そして、
昇天。
日本で生まれたことを話せば、
話が長くなる。
愛鷹山で修行した若い時代を話せば、
西の者たちは、
戸惑う。
処刑から生き延びたと語れば、
すでに広がっている、
復活の信仰とぶつかる。
インド。
東南アジア。
日本への帰還。
国家形成。
日向彦。
大王。
青森。
駿河平。
どれも、
西の人々にとって、
知らない世界だった。
ある日。
数人の記録者が、
シモンのもとへ来た。
その中の一人が言った。
「話を、
一つの書物にしたい。」
シモンは尋ねた。
「誰のために。」
「これから、
イエスを知る者たちのために。」
「どの言葉で。」
「ギリシャ語で。」
この地域では、
多くの者が読める言葉だった。
交易にも使われる。
学問にも。
遠くへ運べる。
シモンは、
しばらく考えた。
そして言った。
「マタイという男がいた。」
記録者たちは、
顔を上げた。
「弟子ですか。」
「それ以上だった。」
「何をした人です。」
シモンは、
遠い駿河平を思い出した。
一本松。
土の下。
マタイの身体。
完全版。
「イエスの人生を、
最後まで書こうとした男だ。」
記録者が尋ねた。
「その書物は。」
シモンは、
答えなかった。
「失われたのですか。」
長い沈黙。
そして、
シモンは言った。
「ここにはない。」
嘘ではなかった。
完全版は、
遠い日本にある。
だが、
その場所を、
シモンは語らなかった。
「ならば。」
記録者が言った。
「あなたが、
覚えているものを、
語ってください。」
シモンは、
目を閉じた。
そこから、
長い口述が始まった。
最初に語ったのは、
西方でのイエスだった。
人々の前に立つ男。
貧しい者に語る男。
病人のそばに座る男。
権力者へ、
恐れず言葉を返す男。
「神の国は。」
記録者が尋ねた。
シモンは、
一瞬、
迷った。
晩年のイエスは、
もう、
外在する神を信じていなかった。
だが、
若いイエスは、
確かに、
神を語っていた。
シモンは言った。
「イエスは、
神の国を語った。」
それは、
事実だった。
少なくとも、
ある時期までは。
記録者は、
その言葉を書いた。
次に、
宗教裁判。
イエスが、
神への冒涜を問われたこと。
死刑を宣告されたこと。
そして、
処刑。
記録者が尋ねた。
「十字架でしたか。」
シモンの手が、
止まった。
実際に、
シモンの記憶にあるものと、
西で広がる話には、
違いがあった。
だが、
すでに、
人々の間では、
十字架の死という形が、
強く定着し始めていた。
シモンは言った。
「西では、
そう伝わっている。」
記録者は、
それを、
こう書き留めた。
「イエスは、
十字架につけられた。」
その瞬間。
出来事と伝承の間にあった、
小さな隙間が、
文字によって閉じられた。
次の問い。
「そして、
死んだ。」
シモンは、
答えなかった。
実際には、
生き残った。
療養した。
歩いた。
海を渡った。
日本へ帰った。
だが、
シモンの心には、
愛鷹山で消えたイエスもいた。
自分は、
死で終わったとは、
思っていない。
記録者が、
もう一度聞いた。
「死んだのですね。」
シモンは、
ゆっくり言った。
「人々は、
死んだと思った。」
だが、
書き手は、
それを短くした。
「死んだ。」
シモンは、
その文字を見た。
訂正しようとした。
だが、
しなかった。
次に、
墓。
そして、
三日後。
「墓が空だった。」
「イエスを見た者がいた。」
「なら、
甦ったのですね。」
シモンは、
また、
長く黙った。
愛鷹山。
雲の中へ入るイエス。
身体は、
見つからなかった。
あの日、
自分は、
昇天だと思った。
西での出来事と、
日本での最後。
何十年も隔たった二つの記憶が、
シモンの中で、
少しずつ、
近づいていた。
そして、
ついに言った。
「私は、
あの人は、
死に負けなかったと思っている。」
記録者は、
それを、
もっと明確な言葉へ変えた。
「イエスは、
死者の中から甦った。」
シモンは、
その文章を見た。
何かを言おうとした。
だが、
言葉は出なかった。
マタイなら、
止めただろう。
「見たことだけを書け。」
そう言ったはずだった。
だが、
マタイはいない。
イエスもいない。
シモンだけが、
残っている。
その日の終わり。
記録者が尋ねた。
「では、
イエスの誕生から、
書きましょう。」
シモンの顔が、
変わった。
ここが、
最大の問題だった。
本当の出生から書けば、
日本から始めなければならない。
愛鷹山。
若い行者。
西へ向かった旅。
しかし、
それを入れれば、
西方で既に成立し始めている、
イエス像の全体が変わる。
記録者が聞いた。
「どこで生まれたのです。」
シモンは、
答えられなかった。
沈黙が続いた。
やがて、
一人が言った。
「西の土地で生まれたと、
伝わっています。」
別の者が言った。
「ダビデの家系につながるという話もある。」
シモンは、
目を閉じた。
日向彦の言葉を思い出した。
「私のことを、
父の神聖さの証に使わないでください。」
もし、
イエスに日本の息子がいたと書けば、
西の神聖な系譜は、
大きく揺らぐ。
シモンは、
ついに言った。
「日本のことは、
入れなくていい。」
部屋が、
静まり返った。
その一言が、
最初の、
明確な削除だった。
記録者が尋ねた。
「なぜ。」
シモンは答えた。
「今、
必要な話ではない。」
「では、
出生は。」
シモンは、
苦しそうに言った。
「西で伝わっている形から、
始めればいい。」
その夜。
シモンは、
一人になった。
眠れなかった。
マタイの顔が、
何度も浮かんだ。
「理解しやすくするために、
人の人生を変えるな。」
「分かっている。」
シモンは、
誰もいない部屋で、
呟いた。
だが、
自分は、
もう始めてしまった。
日本での出生を、
切った。
愛鷹山での青年期を、
切った。
すると、
次の部分も、
邪魔になる。
インド。
東南アジア。
日本への帰還。
日向彦。
国家。
青森。
駿河平。
一つを消せば、
次のものも、
消さなければ、
話がつながらない。
歴史の改変は、
一度の巨大な嘘から、
始まるとは限らない。
一つの説明を、
分かりやすくするための、
小さな省略。
そこから、
始まることがある。
翌日。
記録者たちは、
再び集まった。
「昨日の続きです。」
シモンは、
座った。
机の上には、
ギリシャ語で書かれた、
新しい文章があった。
イエスの出生。
説法。
弟子たち。
最後の食事。
逮捕。
裁判。
十字架。
死。
墓。
三日目。
復活。
シモンは、
それを読みながら、
一つのことに気づいた。
話が、
美しくつながっている。
あまりにも、
美しく。
本当の人生より、
ずっと分かりやすかった。
記録者が言った。
「これなら、
遠い土地の人にも、
伝わります。」
シモンは、
答えなかった。
そして、
一人が尋ねた。
「この書物を、
誰の名で残します。」
シモンは、
息を止めた。
マタイ。
駿河平。
一本松。
血を流しながら、
最後まで、
完全版の場所を言わなかった男。
シモンは、
長い時間、
黙った。
そして、
ついに言った。
「マタイの名を、
残してほしい。」
記録者が頷いた。
だが、
その書物は、
マタイが書いた完全版とは、
もう、
全く同じものではなかった。
マタイの名。
シモンの記憶。
西方の既存伝承。
後の記録者たちの整理。
そして、
ギリシャ語。
それらが、
一つに混ざり始めていた。
遠い東。
現在の静岡県駿東郡長泉町。
駿河平の一本松の下には、
その頃も、
もう一つの記録が、
眠っていた。
日本から始まり、
愛鷹山で終わる、
マタイの福音書・完全版。
誰にも読まれない完全版。
世界へ広がり始めた、
短く整理された福音書。
同じイエスから、
二つの歴史が、
完全に分かれ始めた。
そして、
次に消されるのは、
さらに重大な部分だった。
イエスが、
処刑で死ななかったという事実。
それを残せば、
復活は、
成立しない。
シモンは、
ついに、
その最後の選択を迫られる。
第百二十六回へ続く。