眞記雄は、
言い返せなかった。
最後に、
二人は握手した。
それだけだった。
抱きしめない。
大げさな別れもない。
眞記雄が言う。
「戻ったら、また会いましょう。」
エレオノーレが聞く。
「今度は、たぶん、ではない?」
眞記雄は、
少し考えた。
そして答えた。
「戻ります。」
言ってから、
自分で驚いた。
初めて、
はっきり言った。
エレオノーレも、
少しだけ驚いた。
そして、
笑った。
「では、待っています。」
その言葉を背に、
眞記雄は馬車へ向かった。
出発。
車輪が動く。
ウィーンの石畳。
馬の蹄。
建物が、
ゆっくり後ろへ流れていく。
モーツァルトとハイドンは、
見送りに来ていた。
モーツァルトは、
最後まで何か言っている。
「プラハで私の悪口を聞いても信じるな!」
眞記雄が返す。
「良い評判だけ信じろというのか!」
「そうだ!」
「都合が良すぎる!」
遠くなる。
ハイドンは、
ただ帽子を取っていた。
眞記雄も、
小さく頭を下げた。
馬車が曲がる。
二人の姿が見えなくなる。
その瞬間。
眞記雄の胸が、
少しだけ痛んだ。
数日かもしれない。
数週間かもしれない。
それでも、
離れることは離れることだった。
馬車は進む。
町の中心を離れる。
建物が減る。
道が広く感じられる。
畑。
丘。
村。
眞記雄は、
窓から外を見た。
ウィーンが、
少しずつ小さくなる。
そして、
ある瞬間。
見えなくなった。
眞記雄は、
そこで初めて気づいた。
寂しい。
だが、
日本を離れたときの寂しさとは違う。
あのときは、
帰る場所を置いてきた。
今日は、
また帰ってくる場所を一つ置いてきた。
その違い。
眞記雄は、
しばらく言葉にできなかった。
ウィーンは、
もう目的地ではない。
帰ってくる場所の一つになっていた。
眞記雄は、
その事実を静かに受け入れた。
旅は続く。
道は、
平らな場所ばかりではなかった。
車輪が跳ねる。
身体が揺れる。
舗装された都市の道とは違う。
馬車の中で楽譜を読もうとした眞記雄は、
数分で諦めた。
字が揺れる。
線も揺れる。
自分まで気分が悪くなる。
眞記雄は、
総譜を閉じた。
外を見る。
それしかない。
村を通る。
子供が走ってくる。
馬車を見る。
異国人の眞記雄を見る。
一人の子供が、
何か言う。
意味は分からない。
だが、
笑っている。
眞記雄も、
手を上げた。
子供がさらに大きく手を振る。
それだけのことだった。
だが、
眞記雄は少し楽しくなった。
道中の宿。
ウィーンの宮廷に近い生活とは、
まったく違う。
部屋は小さい。
床は少し軋む。
食事も簡素。
旅人。
商人。
御者。
兵士らしい男。
農民。
さまざまな人間が、
同じ場所で食べている。
眞記雄は、
最初、少し目立った。
服装。
顔立ち。
従者。
明らかに普通の旅人ではない。
だが、
食事が始まれば、
皆、食べる。
パンをちぎる。
肉を切る。