モーツァルトが、
一瞬黙った。
そして言った。
「馬鹿。」
「何だ。」
「お前が出ないと、今度は皆が困る。」
その通りだった。
眞記雄は、
舞台へ出た。
客席。
大勢の人。
顔。
以前の自分なら、
一人一人を見て、
自分がどう評価されているか確かめようとしたかもしれない。
今日は、
ただ礼をした。
拍手が続く。
皇帝ヨーゼフ二世もいる。
眞記雄は、
その姿を見た。
皇帝は立ってはいなかった。
だが、
しっかり拍手していた。
眞記雄は、
少し笑った。
あの最後を、
認めてもらえた。
それだけでよかった。
舞台を降りる。
廊下。
モーツァルトが待っていた。
眞記雄は、
すぐ聞いた。
「どうだった。」
モーツァルトは、
少し嫌そうな顔をした。
「今聞くのか。」
「今。」
「本当に?」
「本当のことを言え。」
モーツァルトは、
少し考えた。
そして言った。
「第一幕、長い。」
眞記雄は頷く。
「知っている。」
「男の最初のアリア、少し美しすぎる。」
「そこは迷っている。」
「クララは良かった。」
「知っている。」
「最後の二重唱。」
モーツァルトが止まる。
眞記雄は待った。
「何だ。」
モーツァルトは、
小さく言った。
「悔しい。」
眞記雄は笑った。
「それも知っている。」
モーツァルトも笑った。
だが、
そのあと表情を変えた。
「眞記雄。」
「何だ。」
「今夜は、勝ったと思うなよ。」
眞記雄は少し驚いた。
「思っていない。」
「本当に?」
「ああ。」
少し間を置く。
「今日は、誰にも勝っていない。」
モーツァルトが眞記雄を見る。
「では?」
眞記雄は答えた。
「作品が、私から離れた。」
モーツァルトは、
しばらく黙った。
そして、
少しだけ笑った。
「それなら、本当に作曲家になったのかもしれない。」
眞記雄は、
すぐ言い返した。
「ハイドン先生みたいなことを言うな。」
「最近、移るんだ。」
二人は笑った。
そこへ、
ハイドンが来た。
眞記雄は、
すぐ彼を見る。
「先生。」
ハイドンが頷く。
眞記雄は待った。
初演前には、
一言しか言わなかった。
今度は何を言う。
褒めるか。
直すか。
批評か。
ハイドンは、
しばらく眞記雄を見た。
そして言った。
「明日、直しましょう。」
眞記雄は、
思わず笑った。
「それだけですか。」
「十分でしょう。」
「良かったのか悪かったのか。」
ハイドンは少し考える。
「初演された。」
「それは見れば分かります。」
「最後まで客が聞いた。」
「はい。」
「あなたも最後まで聞いた。」
眞記雄は、
その言葉に少し止まった。
確かに。
以前なら、
自分の想像と違う音が出るたび、
頭の中で修正していた。
客が笑わなければ、
失敗だと思った。
拍手を待った。
今日は、
途中から作品を聞いていた。
作曲家としてではなく、
一人の聴き手として。
ハイドンは、
それを見ていたのかもしれない。
「先生。」
眞記雄が言った。
「最初の一言。」
「何です。」
「もう私の作品ではない、と。」
「はい。」
「今は分かります。」
ハイドンが頷く。
眞記雄は続けた。
「でも、少し寂しい。」
ハイドンが笑った。
「当然です。」
「作ったのに。」
「子供と似ています。」
「子供?」
「自分から生まれたからといって、永遠に自分のものではありません。」
眞記雄は、
少し考えた。
そして言った。
「では、作曲家は何を持てるのです。」
ハイドンは答えた。
「次の作品。」
眞記雄は、
思わず笑った。
やはり、
この人は最後に仕事へ戻す。
その夜。
初演後の小さな集まりがあった。
皇帝も短時間顔を出した。
眞記雄へ言った。
「最後を変えなくてよかった。」
眞記雄は驚いた。
「陛下が変えろと言ったのでは。」
皇帝は笑った。
「私は、分かるようにしてほしいと言った。」
「結ばせろとも。」
「最初は。」
眞記雄は少し呆れた。
皇帝は続けた。
「結果が良ければ、統治者は少し都合よく記憶するものです。」
眞記雄は笑ってしまった。
「陛下が言いますか。」
「だから言えるのです。」
そして、
皇帝は少し真面目な顔になった。
「ただ。」
「はい。」
「あのアンナの最後は、あなたがウィーンへ来たころには書けなかったでしょう。」
眞記雄は、
その言葉に黙った。
確かに。
書けなかった。
ウィーンへ来る前の自分なら、
もっと大きく終わらせた。
もっと劇的に。
もっと、自分の才能が分かるように。
今は違う。
一人の女が窓を開ける。
そして、
自分の朝を生きると言う。
それだけで終われるようになった。
皇帝は言った。
「ウィーンへ来た意味は、もう十分あったようですね。」
眞記雄の胸が、
少し痛んだ。
帰国。
その言葉を直接言われたわけではない。
だが、
思い出した。
自分は旅人だ。
いつか帰る。
宴が終わる。
深夜。
眞記雄は一人で宿へ戻った。
机の上。
第三交響曲。
そして、
オペラの総譜。
眞記雄は、
総譜を開いた。
初演前には、
直したくて仕方なかった。
今も直したい場所はある。
だが、
見え方が違う。
間違いを消すためではない。
作品を、
今日聞いた姿へ近づけるため。
第一幕。
長いところを印する。
男のアリア。
少し音を引く。
アンナの休符。
触らない。
最後の二重唱。
触らない。
最後の和音。
触らない。
眞記雄は、
少し笑った。
以前の自分なら、
成功したところこそ、
もっと成功させようとした。
今は、
触らない勇気を少し知った。
総譜の最後の頁。
余白へ、
一行書いた。
「作品は、完成したときではなく、手放したときに生まれる。」
その下へ。
「作者がすべてを決められなくなったところから、作品の人生が始まる。」
さらに、
もう一行。
「拍手は終わりではない。次に直すための夜である。」
眞記雄は、
ペンを置いた。
そして、
第三交響曲を開いた。
ハイドンの言葉を思い出す。
次の作品。
オペラが成功した。
それでも、
明日はまた白い紙だ。
眞記雄は、
その白さが、
以前ほど怖くなかった。
一小節。
書く。
今日の拍手を入れない。
今日の成功を説明しない。
ただ、
今夜の自分から出てくる音を書く。
最初の音。
次。
そして、
三小節目で手が止まった。
眞記雄は、
少し笑った。
何も変わらない。
成功しても、
次の一音は難しい。
それでよい。
窓の外では、
深夜のウィーンが静かだった。
初演の拍手は、
もう聞こえない。
だが、
どこかの家では、
今日の旋律を覚えた人が、
口ずさんでいるかもしれない。
誰かは、
アンナを思っているかもしれない。
誰かは、
自分自身の別れを思い出しているかもしれない。
それを、
眞記雄はもう知ることができない。
そして、
知る必要もなかった。
作品は、
もう彼らの中にもある。
ハイドンの言葉どおりだった。
もう、
自分一人の作品ではない。
第三十一回 終
次回 第三十二回「成功した翌朝、モーツァルトは眞記雄を褒めなかった」
初演成功の翌朝。
眞記雄は、表向きは平静を装いながら、心のどこかでモーツァルトからの決定的な評価を待っています。
ところがモーツァルトは、昨夜の成功についてほとんど褒めません。
そして、総譜のある一箇所を指して言います。
「ここは、昨日の拍手で隠れた。」
眞記雄は反発します。
「客は喜んだ。」
モーツァルトは答えます。
「だから危ない。」
成功した作品には、失敗作とは別の危険があります。
拍手が、欠点まで正しく見せてしまうこと。
評判が、作者自身の耳を鈍らせること。
第三十二回では、眞記雄が初めて、**失敗より怖い「成功への依存」**と向き合います。
そしてモーツァルトは最後にこう言います。
「昨日の客に勝とうとするな。昨日のお前に勝て。」