『午前二時の帰り道』

――1982年、富里村日吉台

第15回 次の男がやって来た

十月六日。

竹内眞記雄が「成田南部」を辞めるまで、あと四日。

その日の午後、

一人の青年が販売店へやって来た。

細身だった。

眞記雄と同じくらいの年齢に見えた。

大きな鞄を一つ持ち、

入口のところで立っている。

どこか落ち着かない。

水野所長が出てきた。

「今日から入る子だ」

そう言った。

青年は小さく頭を下げた。

「よろしくお願いします」

眞記雄も頭を下げた。

「よろしく」

その瞬間だった。

眞記雄は、

七か月前の自分を見たような気がした。


新しい建物。

知らない人間。

知らない町。

これから午前二時に起きる生活。

まだ何も分かっていない顔。

自分も、

こんな顔をしていたのだろうか。

七か月前。

一九八二年三月十日。

駿河平からやって来た二十一歳の青年。

地図も持たず、

原付で静岡から千葉まで走ってきた。

水野所長に、

「これで来たのか」

と驚かれた。

そして、

何も知らないまま、

新聞奨学生の生活へ入った。

その時は、

七か月後に辞めることなど考えていなかった。

目の前の青年も、

おそらく同じだった。

これから何が起きるか、

何も知らない。


この青年を、小説の中では、

佐藤

と呼ぶことにする。

実在の人物をそのまま描いたものではない。

この長編のために作った人物である。

佐藤は地方から出てきた十八歳。

大学ではなく、

専門学校への進学を目指していた。

家に十分な金がなく、

新聞奨学制度を使うことにした。

それが設定だった。

水野所長が言った。

「眞記雄」

「はい」

「お前の第3部、明日からこいつに教えてくれ」

眞記雄は一瞬、

返事が遅れた。

「俺のところを?」

「そう」

「もう引き継ぎですか」

「あと四日しかないだろ」

当たり前だった。

しかし、

胸の奥が少しだけ動いた。

自分の区域が、自分の区域ではなくなる。

その現実を初めて突きつけられた。


広沢君が横から言った。

「ついに後継者だな」

「大げさだよ」

「第3部二代目」

「俺の前にもいた人いるだろ」

「じゃあ何代目か分からないな」

佐藤は二人の会話を、

少し緊張した顔で聞いていた。

眞記雄はそれに気づいた。

「あ、ごめん」

「いえ」

「そんなに怖くないから」

広沢がすぐ言った。

「嘘つけ」

「お前は黙ってろ」

「犬いるぞ」

佐藤の顔が少しこわばった。

眞記雄は笑った。

「本当にいるけど、慣れるよ」

「噛みますか」

広沢が答えた。

「人による」

「お前が噛まれただけだろ」

二人が笑う。

佐藤も、

少しだけ笑った。

その笑顔を見て、

眞記雄は妙に安心した。


その夜。

佐藤は早めに寝た。

明日、

初めて午前二時に起きる。

眞記雄は広沢と販売店の外へ出た。

缶コーヒーを飲む。

十月の風。

少し冷たい。

「変な感じだな」

眞記雄が言った。

「何が」

「次の奴が来た」

「そりゃ来るだろ」

「俺がいなくなっても、本当に続くんだな」

広沢は缶を振った。

「新聞屋が潰れると思ってた?」

「そうじゃないよ」

「じゃあ何」

眞記雄はうまく説明できなかった。

自分が辞める。

次が来る。

第3部を配る。

田島の家へ新聞を入れる。

犬に吠えられる。

赤い郵便受け。

坂。

角。

朝焼け。

全部、

誰か別の人間の生活になる。

それは分かっていた。

しかし、

実際に「次の人」を目の前にすると、

自分が過去になる感覚があった。


広沢が言った。

「お前さ」

「うん」

「自分の場所だと思ってた?」

眞記雄は少し考えた。

「たぶん」

「第3部?」

「うん」

「でも、お前のものじゃないじゃん」

「分かってる」

「新聞屋の区域だろ」

「分かってるよ」

広沢は笑った。

「じゃあ渡せばいい」

眞記雄は、

その言葉を聞いた。

渡せばいい。

何でもない一言だった。

だが、

妙に残った。


翌朝。

午前一時四十分。

目覚ましが鳴る。

眞記雄は起きた。

廊下へ出る。

広沢も出てくる。

そして、

少し遅れて佐藤の部屋の扉が開いた。

ひどい顔をしていた。

「眠い?」

眞記雄が聞いた。

佐藤は、

ほとんど目を閉じたまま言った。

「はい」

広沢が笑った。

「初日はみんなそう」

眞記雄が言った。

「お前は今でもそうだろ」

「俺は熟練の眠さ」

意味の分からない言葉だった。

佐藤がまた少し笑った。


顔を洗う。

一階。

タイムカード。

眞記雄。

ガチャン。

広沢。

ガチャン。

佐藤。

機械の前で一瞬戸惑う。

「こう?」

「カード入れるだけ」

眞記雄が教える。

佐藤が差し込む。

ガチャン。

三つ目の音。

眞記雄は、

七か月前の自分を思い出した。

初めて押したタイムカード。

あの時も、

こんな小さな音だった。

そして今日。

自分が終わろうとしている横で、

一人の青年の時間が始まった。

始まりと終わりは、

同じ場所で起きることがある。


新聞が届く。

佐藤が驚く。

「こんなにあるんですか」

眞記雄は笑った。

その言葉も、

自分が最初に言ったような気がした。

「持ってみる?」

佐藤が新聞の束を持つ。

「重い」

広沢が言った。

「みんな最初それ言う」

眞記雄は新聞をほどきながら、

一つずつ教えた。

折り込み。

部数。

順番。

区域ごとの仕分け。

新聞を配る順に積むこと。

「適当に積んだら、途中で探すことになる」

「はい」

「朝刊だけじゃないから」

「夕刊もですよね」

「あと拡張」

佐藤が一瞬黙った。

広沢が笑った。

「今から嫌そうな顔してる」

「いや……」

「正しい反応」

眞記雄は笑った。


午前三時前。

二人で一台ずつ原付に乗る。

佐藤は、

まだ自分一人では配らない。

眞記雄の後ろをついてくる。

「ゆっくり行くから」

「はい」

「新聞積んでる時は急に曲がらない」

「はい」

「白線とマンホールは雨の日滑る」

「はい」

「眠かったら止まれ」

その言葉を言った時、

眞記雄自身が少し止まった。

佐藤が聞いた。

「はい?」

「いや」

眞記雄は続けた。

「無理して走らない方がいい」

「遅れませんか」

「遅れる」

「じゃあ……」

「でも事故ったらもっと遅れる」

佐藤はうなずいた。

その言葉は、

水野所長から直接教えられたものではない。

眞記雄自身が、

一度事故を起こしかけて覚えたことだった。

自分が失敗して得たものを、

次の人間へ渡している。

それに気づいた。


二台の原付が日吉台へ出た。

眞記雄が前。

佐藤が後ろ。

七か月前は、

眞記雄が誰かのテールランプを追っていた。

今日は、

自分のテールランプを誰かが追っている。

それだけで、

少し不思議だった。


最初の家。

眞記雄が止まる。

「ここ」

新聞を入れる。

「次は二軒飛ばす」

「何でですか」

「取ってないから」

「どうやって覚えるんですか」

眞記雄は少し笑った。

「覚える」

「それだけですか」

「最初は俺もそう思った」

佐藤は不安そうだった。

「全部覚えられます?」

「覚えられるよ」

「何日くらいで」

「一週間」

水野所長から自分が言われたのと、

同じ言葉だった。


次。

角。

坂。

赤い郵便受け。

「ここは奥まで入れる」

「はい」

「雨の日、濡れやすい」

「はい」

犬の家。

犬が吠えた。

「ワン! ワン!」

佐藤の身体が少し跳ねた。

眞記雄は笑った。

「こいつ」

「本当にいるんですね」

「いるよ」

「噛みます?」

「俺は噛まれてない」

「別の人は?」

「一人だけ」

広沢の顔が浮かぶ。

眞記雄は笑った。

「大丈夫。最初は吠えるけど、そのうち覚える」

「犬が?」

「犬の方が先にお前を覚える」

その言葉を口にして、

眞記雄は驚いた。

七か月前、

自分も先輩から、

まったく同じことを言われた。

言葉というものは、

こんなふうに受け渡されるのか。

誰が最初に言ったか、

もう分からない。

新聞販売店の中で、

先輩から後輩へ。

それだけだった。


田島老人の家へ来た。

田島は、

珍しくもう玄関先に立っていた。

眞記雄を見る。

その後ろの佐藤を見る。

「新しいのか」

「はい」

眞記雄が答えた。

「俺の後です」

佐藤が頭を下げた。

「よろしくお願いします」

田島は笑った。

「俺によろしくしてどうする」

佐藤は少し困った。

眞記雄が言った。

「この人、朝からよくしゃべるから」

「お前も最近よくしゃべる」

田島が返す。


田島が佐藤を見る。

「若いな」

「十八です」

「十八か」

そして、

「新聞一部余らせるなよ」

と言った。

眞記雄が驚いた。

「それ、俺の話でしょう」

田島は笑った。

「お前より優秀なら大丈夫だ」

佐藤が、

眞記雄の顔を見る。

「余らせたんですか」

「最初に一回だけ」

「全部回り直した」

田島が言う。

「それ言わなくていいですよ」

三人で笑った。


田島が、

少し真面目な顔になった。

「兄ちゃん」

眞記雄を見る。

「ちゃんと教えてやれよ」

「はい」

「お前が七か月かけて覚えたことを、四日で全部渡せ」

眞記雄は、

その言葉に一瞬返事ができなかった。

渡せ。

昨夜、

広沢も言った。

今朝、

田島も言う。

別に思想の話ではない。

ただ仕事の引き継ぎ。

しかし、

眞記雄には妙に強く聞こえた。

「全部は無理ですよ」

笑いながら言った。

田島も笑った。

「じゃあ大事なことだけ渡せ」

眞記雄はうなずいた。

「はい」


再び走る。

佐藤が後ろからついてくる。

途中で、

一軒飛ばしそうになった。

眞記雄が止める。

「ここ」

「あ、すみません」

「最初は間違えるよ」

その言葉を言った瞬間、

第3回の朝が浮かんだ。

新聞が一部余った。

暗い町を全部回り直した。

水野所長。

「新聞屋で一番怖いのは、間違えることじゃない。」

「間違えたのに、まあいいかって帰ってくることだ。」

そして、

「分かったら戻れ。」

眞記雄は佐藤へ言った。

「一個だけ覚えておいて」

「はい」

「間違えるのはしょうがない」

佐藤が聞く。

「はい」

「でも、間違えたって分かったら戻った方がいい」

佐藤は、

ごく普通の仕事上の注意として聞いていた。