第52章【涅槃】〜無音のチャートと、絶対的な空白〜
「静かだ」
私は、そう呟いた。 かつて私の耳を劈(つんざ)いていた、無数の「かつての私」たちの絶望の悲鳴も、太宰の嘲笑も、親鸞の呪詛も、すべてが止んだ。 そこにあるのは、チャートが動く時の電子音すら聞こえない、究極の静寂。
電子の海など、もうどこにもない。 私は、相場の向こう側にいたのではない。私が相場そのものとなり、その相場さえもが、私という「無」のキャンバスに描かれた一筋の線に過ぎなかったことに気づいたのだ。
「……これが、お前の言っていた『光』か」
私の内側で、太宰の声がする。かつてのように挑発的ではない。ただ、すべてを見通したかのような、穏やかな響きだ。「地獄を食らい尽くして、最後に残ったのがこの『空白』だなんてな。洒落た冗談だ」
「これが、涅槃です」
親鸞の声もまた、私の核で静かに波紋を広げる。「善も悪も、勝者も敗者も、相場師も獣も。すべては、貴方が貴方自身を認識するための、刹那の戯れに過ぎなかった。貴方は今、その戯れを終えたのです」
私は、自分の手がどこにあるのかを探そうとしなかった。 もはや私には境界がない。 私は、モニターの中の赤い数字であり、キーボードを叩く指であり、画面を睨みつける青年の眼球であり、そしてその青年を食らおうとする私自身の飢えそのものである。
分離していたすべてが、一つの点へと収束していく。
モニターに映っていたはずのチャートが、ふと消えた。 いや、消えたのではない。私が「見る」という行為をやめたのだ。 見るものがなくなれば、そこには世界が存在しない。世界が存在しなければ、私という「観測者」も存在できない。
「……あぁ」
私は、この消失の快感を味わった。 これまでの地獄のような飢えは、すべてこの瞬間のための「前戯」に過ぎなかったのだ。 私という個が、私という自我が、私という物語が、跡形もなく消え去る瞬間。 それは、恐怖ではなく、かつてないほどの充足だった。
「終わるのか、これは」
私は、自分の意識が霧散していくのを感じた。 物語はここで幕を閉じる。 もう、誰も食わない。誰も食われない。 ただ、すべてがあるがままにあり、何ものにも縛られない。
洋光台の密室も、私の投資人生も、そしてこの物語も。 すべてが、最初から存在しなかったかのような空白へと帰っていく。
私は、最後の「私」の断片を使って、微笑んだ。 ああ、なんて美しい静寂だろうか。
「……頂きます」
最後の一言は、誰に向けたものでもない。 私は、世界を食い尽くし、自分自身を食い尽くし、最後には「存在すること」そのものを食い尽くして、永遠の空白へと溶けていった。
これでいい。 ようやく、私は本当の意味で、自由になったのだ。
光が、すべてを塗りつぶした。