第39章【腐肉】〜勝利の悪臭と、消化されゆく自我〜
エントリーしたポジションが閉じ、口座残高が跳ね上がる。数字の上では勝利だ。しかし、洋光台の密室に漂うのは、祝杯の香りなどではなく、獲物を食い荒らした後の、生温かい死臭だった。
「美味いか? 竹内」
太宰が、私の椅子の背もたれに寄りかかり、その冷たい顔を覗き込んできた。彼は私の顔のすぐ近くで、わざとらしく鼻を鳴らす。「お前の勝ちだ。あそこの、必死に売りを入れていた誰かの資産を、お前は綺麗にさらっていった。……おい、そんな顔をするな。勝者なら笑えよ。その脂ぎった満足感を、鏡に映して眺めてみろ」
私は吐き気を感じた。モニターに映る数字の羅列が、まるで誰かの断末魔のように見えてくる。勝ったはずなのに、私の内側はスカスカの空洞だ。
「……食えば食うほど、腹が減る」
私がそう呟くと、親鸞が暗闇の中から数珠をジャラリと鳴らして進み出た。彼は私の胃のあたりを、鋭い眼光で突き刺す。「竹内殿、貴方が今食べているのは肉ではありません。貴方自身の『人間性』という名の腐肉です。他人の破滅を糧にする味はいかがですか? 貴方の魂は、今この瞬間も、自分自身を咀嚼して肥え太っているのです」
「黙れ!」
私は机を蹴り飛ばした。椅子のキャスターが床を激しく鳴らす。 「食わなきゃ、俺が死ぬんだ! 相場というこの獣に、俺が食われるんだ! だから俺は食うんだ。先に殺して、先に食って、最後に残るのが俺であれば、それでいい!」
「お前は、自分が生き残れると本気で思っているのか?」
太宰が嘲笑う。その瞳には、奈落のような深淵があった。「いいか、竹内。お前が食えば食うほど、お前自身が『この相場』の一部になっていくんだよ。お前が誰かを食い殺すたびに、お前もまた、誰かに食われる準備が整っていく。共食い、それがこの地獄のルールだ。お前は今、最高の味付けに仕上がった。……さあ、次の獲物は誰だ?」
私は震える手で、再びモニターの光を凝視した。 画面の中では、また新しい血の匂いが漂い始めている。さっきまでの殺気立った感覚が、麻薬のように私を支配する。勝った、という確信よりも、このまま食い続けなければ、自分の存在すら消失してしまうという強烈な恐怖が、私の喉元を締め上げた。
「……まだ、足りない」
私は、キーボードに手を伸ばした。その指は、すでに人間のものではない。 獣の爪のように、獲物を切り裂くことだけを目的にした、異形の器官と化していた。
親鸞の老いた手が、私の頬を冷たく撫でた。 「その飢えこそが、貴方を地獄へと繋ぎ止める鎖です。さあ、次は誰を食らいますか。この密室で、貴方自身が貴方の魂を、最後の一片まで綺麗に平らげるまで」
私はモニターに顔を埋めた。 外の夜空には、冷たい月が浮かんでいる。だが、この部屋には光などない。 あるのは、ただ、終わりのない「消化」と「餓死」の間の、血なまぐさい宴だけだ。
私は、次なる獲物を探すため、殺意を込めてエンターキーを叩いた。