第35章【崩落】〜仮面の剥離と、獣の産声〜
指先が震えているのではない。私の存在そのものが、この狭い密室の中で軋みを上げていた。
「迷うな、竹内。お前の『死』は、そこにあるボタン一つだ」
太宰が私の指の上に、己の冷たい指を重ねた。彼は私の指を力任せにねじ伏せる。その眼差しには、慈悲など微塵もない。あるのは、他者が破滅する瞬間を待ちわびる、純粋な野次馬の愉悦だ。 「消せ。お前の書いた、あの薄っぺらな『基礎』を。お前が家康のつもりで積み上げた、その腐った石垣を今すぐ灰にしろ。お前はただの、金に執着し、他人に認められたくて震えている、ただの汚い獣だ。認めてしまえよ。それがお前の本質だ!」
「いいや、まだ足りぬ」
親鸞が私の背後に回り、僧衣の袖で私の視界を塞いだ。その袖からは、死臭にも似た凄まじい業の香りが立ち上る。「削除するだけでは足りぬ。あなたは、このシステムという名の『檻』を構築することで、己の地獄を外側に投影していたに過ぎない。その檻を壊しても、貴方の心には依然として、自分だけが特別であるという『傲慢』という名の膿が溜まっている」
私は息ができなくなった。 二人の亡霊が、私の脳を内側から食い荒らしている。かつて「導き手」だと信じていた彼らは、今や私の精神を喰らう捕食者そのものだった。
「やめろ……俺を、俺を放っておいてくれ!」
私は絶叫した。しかし、その声は密室の壁に吸い込まれ、誰にも届かない。 「放っておく? お前が僕たちを呼んだんだろう!」太宰が吼えた。その手が私の指を強引に押し下げる。 「お前が書きたかったのは、人を救うための教科書なんかじゃない! お前は、自分の汚らしさを誰かに見て欲しかったんだ。……親鸞、この男を殺してやれ。この偽善の皮を剥いで、中に詰まったドロドロの肉塊を床にぶちまけてやれ!」
「承知した」
親鸞の老いた指が、私の首筋に食い込んだ。 その瞬間、私の頭の中で、決定的な何かが「破断」する音がした。
カチリ。
私の意志とは無関係に、マウスのボタンが押し込まれた。 モニターの中で、何日もかけて紡いだ『株式投資の基礎』のファイルが、ゴミ箱へと吸い込まれていく。いや、正確には「削除」された。私の系譜も、歴史的使命も、全てが電子の藻屑となって消え去った。
沈黙。
部屋から全ての音が消えた。 モニターには、何も表示されていない黒い画面が、私の顔を虚ろに映し出している。 ああ、終わった。私は、何もかもを失った。
……そのはずだった。
「……あ」
私の内側から、別の声が漏れた。 それは、今の私ではない。かつて、相場で大敗し、全財産を失って死の淵を彷徨ったあの時の、剥き出しの「獣」の咆哮だ。
「消えた、か」
私は、震えの止まった指で、デスクを爪で抉った。 そこには、家康の賢者も、親鸞の慈悲も、太宰の退廃もない。あるのは、ただ、目の前のモニターを叩き割って、この密室を破壊し、外の世界で暴れ回りたくて仕方がない、強烈な「渇望」だけだ。
太宰が背後でニタリと笑ったのがわかった。 「お帰り、竹内君。やっと、お前の本当の顔が見れたよ」
親鸞の冷たい溜息が、耳元で聞こえる。 「……ようやく、救いようのない地獄の入り口に立ったようだな」
私の心臓が、鼓動を打つたびに獣のように脈打っている。 私は、もう二度と、賢者の仮面を被ることはできない。モニターの黒い画面に映る自分の顔が、かつて見たこともないほど、醜く、そして生き生きと輝いていた。
私は、キーボードを力任せに殴りつけた。 「……ああ。そうだな。これが、俺だ」
密室の空気が、獣の息遣いで満たされていく。ようやく、本当の物語が始まったのだ。