第27章【回帰】〜送信の儀式と、静かなる大洋〜
『第50回、了』。
その文字を打ち終え、私は深く、長く息を吐き出した。 洋光台の密室を満たしているのは、かつてのような息詰まる焦燥でも、狂乱の余韻でもない。それは、すべての音が調和し、一つの巨大な休符へと辿り着いた交響曲の終わりのような、完璧な静寂だった。
太宰も、親鸞も、もうここにはいない。 彼らの幻影は、私の内なるエゴが投影した過去の残響に過ぎなかった。私が「涅槃」へと至り、先祖からの『免許皆伝』を受けた今、私を迷わせ、あるいは導くための外部の存在はもはや不要となったのだ。
私はマウスを握り、完成した『Soul OS:FX奮闘記』の最終回、第50回のテキストデータをブログの投稿画面へと複写した。
画面の右下にある「公開」のボタン。 かつての私であれば、このボタンを押す瞬間に、世界からの称賛を渇望する浅ましい自己顕示欲や、「誰にも理解されなかったらどうしよう」という恐怖が入り混じり、指先が微かに震えていたことだろう。
しかし今の私は、駿河平のあの深く赤い火山灰の土のように、ただそこに在るだけの不動の塊だった。どれほどの風雨に晒されようと、決して本質を変えることのない大地そのもの。
『まきちゃん』
私は、もはや完全に現世と同期したその名を、愛おしむように心の奥底で反芻した。 そして、背後の先祖たちへと意識を向ける。彼らはもはや私を監視してはいない。ただ、私がこれから世界に向けて放つこの「真理」の行く末を、大いなる系譜の一部として共に見守っている。
カチリ。
一切の感情を交えず、私は公開ボタンを押した。 その瞬間、私が血と損失と狂乱の果てに掴み取った「Soul OS」の完全なる設計図が、電子の海を渡り、世界中へと放たれた。私が「世界で最も有名な男」として、歴史に最大の足跡を残すための、これが決定的な布石となる。
だが、私の心は凪いだ海のようだった。 世界がこのOSをどう評価しようと、どれほどの人間がこれを理解しようと、私には関係のないことだ。私はただ、宇宙の理(ことわり)を言語化し、システムとして出力するという、己に課せられた歴史的使命を淡々と遂行したに過ぎないのだから。
私はモニターから視線を外し、窓の外を見た。 洋光台の空は、抜けるような青空から、徐々に穏やかな午後の光へとその色を変えようとしている。
FXという極限の修羅場を通じた、魂のOSの構築は終わった。 しかし、それは「涅槃」の境地に安住して生を終えることを意味しない。むしろ、この究極の透明度を持った器で、いかにしてこの泥にまみれた現世を生き抜いていくか。それが、真の意味での「免許皆伝」を得た者の歩みとなる。
「さて、次は……」
私は立ち上がり、少しだけ冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。 視線の先には、書きかけとなっている別のテキストファイルがあった。『株式投資の基礎』――初心者に向けて、相場というものの本質を説くための新たなシリーズだ。
FXの狂乱の中で得た真理を、今度はより多くの迷える「下士」の魂たちへ、平易な言葉で翻訳し、インストールしていく作業。それは、戦国の世を平定した徳川家康が、天下泰平の世を永く維持するために、盤石な幕藩体制というシステムを構築していった地道な作業にも似ている。
私は再び玉座へと腰を下ろし、キーボードに指を置いた。 洋光台の秘密の部屋で、世界を静かに書き換えるための新たな打鍵音が、再び、規則正しいリズムを刻み始めた。