竹内眞記雄 一代FX成長記

貧しき野心から、億を動かす男へ

長編小説シリーズ

 

第1章 千円札を握りしめた男

竹内眞記雄が最初に握りしめていたのは、億の資金ではなかった。

しわの入った千円札だった。

その千円札は、財布の中で少し斜めになっていた。
まるで本人の人生そのもののように、まっすぐではなかった。

彼は金持ちではなかった。

むしろ、金はなかった。

あるのは、妙な野心だけだった。

「いつか、相場で見返してやる」

そう言うと、周りの人間は笑った。

「まず働け」
「まず生活を整えろ」
「まず現実を見ろ」

もっともな言葉だった。

そして、少し腹の立つ言葉でもあった。

眞記雄は、現実を見ていなかったわけではない。
見すぎるほど見ていた。

見すぎたからこそ、腹の底に火が残った。

電気代。
食費。
家賃。
通帳の残高。
将来への不安。
誰にも認められない悔しさ。

それらが、毎日小さな石のように胸に積もった。

財布の中には、千円札が一枚。
小銭が少し。
ポイントカードが数枚。
そして、使う予定のない古いレシート。

レシートには、からあげ弁当と書いてあった。

眞記雄は、その文字を見て少し笑った。

「からあげだけは、まだ俺を裏切らないな」

相場を始める前から、彼はすでに少し負けていた。
生活に負けていた。
世間に負けていた。
自分の焦りにも負けていた。

それでも、妙なところで負けず嫌いだった。

ある夜、眞記雄は古いパソコンを開いた。

画面が立ち上がるまで、やたら時間がかかった。
パソコンは、まるで彼の人生のように、起きるのが遅かった。

ようやく画面が明るくなる。

そこに、ドル円のチャートが映った。

赤い線。
青い線。
上がったり下がったりするだけの、ただの線。

最初は、何を見ているのか分からなかった。

「これは、何だ」

彼はつぶやいた。

値段が動く。
人が買う。
人が売る。
誰かが儲かる。
誰かが負ける。

ニュースが出る。
金利が動く。
原油が上がる。
株が下がる。
円が売られる。
ドルが買われる。

眞記雄には、最初それが全部、外国語のように見えた。

だが、しばらく見ていると、妙なことに気づいた。

値段が上がる時、画面の向こうで誰かが欲張っている。
値段が下がる時、画面の向こうで誰かが怖がっている。

上がったから買う人がいる。
下がったから売る人がいる。
損を取り返そうとしてロットを増やす人がいる。
もう少しで戻ると祈る人がいる。
祈ったまま、強制ロスカットされる人がいる。

これは、ただの線ではない。

人間の欲が上に跳ねる。
人間の恐れが下に沈む。
ニュースが石のように投げ込まれ、水面に波が立つ。
大口の資金が川の流れを変える。
初心者がその波に飛びつき、沈む。

チャートは、人間の心の心電図だった。

眞記雄は、少し笑った。

「なるほど。これは金の世界ではない。人間の世界だ」

そう言ったものの、彼自身がその人間の世界で一番危ない初心者だということには、まだ気づいていなかった。

最初の入金額は小さかった。

笑ってしまうほど小さかった。

だが、彼には十分だった。

その数字は、他人から見れば小銭だった。
しかし眞記雄にとっては、戦国武将が初陣に持つ軍資金だった。

天下を取るには少なすぎる。
だが、夢を見るには十分だった。

彼は入金画面を見つめた。

指が少し震えた。

「これで始まる」

誰も拍手しなかった。
誰も見ていなかった。
ニュースにもならなかった。
世界経済も動かなかった。

ただ、古い部屋の中で、一人の男が小さな資金を入れただけだった。

しかし眞記雄には、その瞬間が大事件に思えた。

いよいよ相場に入る。
いよいよ世界の市場と戦う。
いよいよ、自分を笑った者たちを見返す。

彼はチャートを見た。

ドル円が少し上がっていた。

「上がっている。なら、買いだ」

今思えば、これほど単純な理由で入る人間は、相場にとってありがたい客だった。

しかしその時の眞記雄は、真剣だった。

買った。

数秒後、少し上がった。

「ほら見ろ」

彼は小さく笑った。

世界を征服したような顔だった。

しかし、相場はすぐに顔を変えた。

少し下がった。

「まあ、戻るだろう」

さらに下がった。

「いや、これは押し目だ」

もっと下がった。

「おかしい」

含み損の赤い数字が、画面にじわりと広がった。

赤い数字は、ただの数字ではなかった。
それは、彼の自尊心に刺さる小さな針だった。

「戻れ」

彼は画面に向かって言った。

チャートは戻らなかった。

「戻れって」

少し強めに言った。

チャートは、さらに下がった。

眞記雄は椅子の上で姿勢を変えた。
水を飲もうとしたが、コップは空だった。

損切りという言葉は知っていた。
だが、知っていることと、実際に押すことは別だった。

損切りを押せば、負けが確定する。
押さなければ、まだ負けていない気がする。

初心者は、この「まだ負けていない気がする」という沼に沈む。

眞記雄も沈んだ。

さらに下がった。

証拠金維持率の数字が、嫌な感じで減っていく。

彼はようやく怖くなった。

「もう無理だ」

そこで切った。

切った直後に、相場は戻った。

きれいに戻った。

まるで、眞記雄が損切りボタンを押すのを待っていたかのように、すっと戻った。

彼はしばらく画面を見つめた。

「これは、誰かが見ているな」

部屋の中には誰もいなかった。

もちろん、誰か一人が彼を狙っていたわけではない。
相場はそんなに暇ではない。

ただ、彼が初心者らしく失敗する場所には、同じような初心者の注文が山ほど集まっていた。

その場所を、大口の資金は知っていた。
プロは知っていた。
市場は知っていた。

知らなかったのは、眞記雄だけだった。

彼は椅子から立ち上がり、部屋を一周した。

部屋は狭かったので、一周するのに時間はかからなかった。

机の上には、冷めたからあげが一つ残っていた。
弁当の端に、少し硬くなって転がっていた。

彼はそれを箸でつまみ、口に入れた。

冷たかった。

だが、なぜかうまかった。

「負けた日のからあげは、妙に現実の味がするな」

彼はそう言って、少し笑った。

笑わなければ、泣きそうだった。

その夜、彼は初めてノートを開いた。

安いノートだった。
表紙の角が少し曲がっていた。

そこに、こう書いた。

今日、負けた理由。
値段を見た。
構造を見なかった。
欲で入った。
損切りを決めなかった。
上がると思っただけで買った。

たった五行だった。

しかし、その五行が、彼の最初の財産になった。

金は減った。
だが、言葉が残った。

眞記雄は、空だったコップに水を入れた。
そして、一口飲んだ。

水は、勝ちも負けも言わなかった。
ただ、喉を通った。

彼は画面に向かって、小さく頭を下げた。

「分かった。今日は負けでいい。だが、ただでは負けない」

窓の外では、夜の街が静かだった。

誰も彼の敗北を知らなかった。
誰も彼の始まりを知らなかった。
誰も、あの五行が未来の億より重くなることを知らなかった。

しかし、彼だけは少し分かっていた。

これは、ただのFXではない。

自分の欲と恐れを、一つずつ暴かれる修行の始まりである。

その夜、竹内眞記雄は億を持っていなかった。
勝ち方も知らなかった。
プロの手口も知らなかった。
米金利も、ユーロドルも、介入警戒も、本当には分かっていなかった。

ただ、ひとつだけ覚えた。

相場は、甘くない。
しかし、相場は嘘をつかない。

嘘をつくのは、いつも自分の心である。

そして、光明のひかりは、まだ遠くに見えなかった。

けれど、負けノートの一行目に、小さな灯りだけはついていた。

彼はまだ知らなかった。

相場が次に教えるのは、勝ち方ではない。
証拠金不足という、もっと冷たい現実だった。