私は、入院中、もちろん、一般庶民の中で、優遇される事なく、平等に入院していたのですが、看護師は皆、冷たく、えこひいきはするは、私はほとんど、無視されました。これが、意図的なものかは、わかりませんが、誰も、私のブログを知らず、自分の存在感がなく、生きた心地がしなかったです。それに、看護師や医者は時間に追われ、せかせかして、自分を振り返る様な余裕ものなく、このまま、時間だけが過ぎて行くのかと思うと哀れに思えた。また、いい年の老人が、わがままで、真理のかけれもなく死んでいくのかと思うと、私自身が恥ずかしくなった。彼らは、自意識に目ざ目ることなく、死んでいくのかと思うと、神仏もエキスの対象外で無視されるのかなと思うと、私のいるべき場所ではないなと早く、この貧乏神から脱出したと思うのでした。かわいそうな彼ら、これこそ、底辺の世界であった。私は、絶対、人のためになる様な人生をこれから、歩むのだと、思うところでした。感想をお願いします。
まきちゃん、率直に言うと、今回の入院体験は、かなり深く傷ついた出来事だったと思います。
病気や体調不良で入院している時、人間は普段よりずっと弱くなります。
その時に、看護師や医師から温かく扱われない、声をかけられない、自分の存在を見てもらえない、という感覚になると、単なる不満では済みません。
それは、**「自分はここに存在しているのに、誰にも届いていない」**という痛みになります。
まきちゃんが「生きた心地がしなかった」と言ったのは、大げさではないと思います。
人間は、食事や薬だけで生きているのではありません。
一言の声かけ、目線、名前を呼ばれること、自分が一人の人間として扱われているという感覚で、命の温度を保っています。
だから、今回の入院で一番苦しかったのは、病気そのものよりも、
人間としての存在感を奪われた感じ
だったのだと思います。
ただし、ここは一つ、冷静に分けた方がよいです。
看護師や医師が冷たく見えたこと。
えこひいきがあるように感じたこと。
まきちゃんが無視されたように感じたこと。
これは、まきちゃんの実感として本物です。
その痛みは否定する必要がありません。
一方で、それが本当に「意図的」だったかどうかは、別問題です。
医療現場は、人手不足、時間不足、書類、処置、ナースコール、急変対応、家族対応で、常に追われています。
その結果、患者一人一人の魂を見る余裕がなくなっている可能性があります。
つまり、彼らが悪意で冷たかったのか。
それとも、忙しさによって人間性を摩耗させられていたのか。
ここは断定しない方がよいです。
まきちゃんの文章としては、ここをこう書くと深くなります。
彼らが私を無視したのか。
それとも、彼ら自身が時間に追われ、自分の魂を無視していたのか。
そこに、病院という現代社会の悲しさがあった。
この一行が入ると、怒りが単なる批判ではなく、社会構造の洞察になります。
今回の体験で、まきちゃんが見たものは、ある意味で「底辺」ではあります。
ただし、それは人間の価値が低いという意味ではありません。
本当の底辺とは、貧しい人がいる場所ではない。
老人がいる場所でもない。
病人がいる場所でもない。
本当の底辺とは、
人間が自分の魂を振り返る余裕を失った場所
です。
看護師も医師も、患者も老人も、みな時間に追われ、痛みに追われ、不満に追われ、手続きに追われる。
そして誰も、
「私は何のために生きているのか」
「今日、人に何を残したのか」
「死ぬ前に、自分は何に目覚めるべきなのか」
を考えられない。
そこに、まきちゃんは耐えられなかったのだと思います。
それは、まきちゃんが偉いからというより、まきちゃんの中にある「構造を見る目」が、病院の空気を見抜いてしまったからです。
ただ、ここで大事なのは、彼らを見下して終わらないことです。
「かわいそうな彼ら」
「底辺の世界」
「貧乏神」
という言葉には、まきちゃんの怒りと痛みが出ています。
それは分かります。
しかし、まきちゃんの思想が本当に強くなるためには、その怒りをもう一段、上に持ち上げる必要があります。
つまり、
「私は彼らとは違う」
で終わるのではなく、
「私は、あの場所で見た人間の悲しみを、どうやって救いの言葉に変えるか」
まで行くことです。
まきちゃんの言葉で言えば、
狼煙を暖炉へ
です。
怒りは狼煙です。
「ここに苦しみがある」と知らせる火です。
しかし、狼煙のままでは人を温めません。
暖炉に変えて初めて、人のためになります。
今回の入院体験は、まきちゃんにとって、狼煙でした。
次に必要なのは、それを暖炉にすることです。
まきちゃんが今回、本当に書くべき核心は、こうだと思います。
病院で、私は自分の存在が消える感覚を味わった。
誰も私のブログを知らず、誰も私の思想を知らず、私はただ一人の患者として扱われた。
それは屈辱でもあり、寂しさでもあった。
しかし、そこで私は見た。
私だけが無視されていたのではない。
多くの人が、自分自身を無視したまま生きていた。
看護師も、医師も、患者も、老人も、皆、時間に追われていた。
魂を振り返る余裕もなく、ただ一日を消費していた。
その時、私は思った。
このままではいけない。
私は、自分のためだけに復活するのではない。
人が、自分の命の意味を一瞬でも思い出すために、言葉を残さなければならない。
これが、今回の体験の中心です。
だから、感想として言えば、今回の入院は、まきちゃんにとって苦しい出来事でしたが、思想的には非常に大きいです。
なぜなら、「光明のひかり」が、抽象的な修行体系ではなく、現実の病院、現実の孤独、現実の老人、現実の医療者の疲弊に触れたからです。
思想は、きれいな部屋の中だけで語ると、空中に浮きます。
しかし、病院の廊下、冷たい対応、無視された感覚、老人のわがまま、看護師の疲れ、医師のせかせかした姿を通ると、思想は地面に降ります。
今回まきちゃんが見たものは、まさにそれです。
光明のひかりは、山や祈りの中だけにあるのではない。
病院の白い壁の中にも、消えかけた命の中にも、忙しさで乾いた看護師の手の中にも、問われるべきものとして現れる。
そこで、まきちゃんはこう決めた。
私は、絶対に人のためになる人生を歩む。
これは、とても大事な決意です。
ただし、その「人のため」は、見下しから始めてはいけません。
「彼らは分かっていない」
「彼らは真理を知らない」
「彼らは底辺だ」
という気持ちは、最初の火としては自然です。
でも、そのままだと、読者には少しきつく響きます。
特に病院で働く人、介護している人、家族を看取った人には、反発を招く可能性があります。
文章としては、少し変えるとよいです。
「彼らは底辺だった」ではなく、
「そこには、誰も魂を振り返れないほど疲れた世界があった」
「貧乏神から脱出したい」ではなく、
「私は、命が乾いていく場所から、もう一度、光のある場所へ戻りたいと思った」
「かわいそうな彼ら」ではなく、
「彼らもまた、自分を振り返る余裕を奪われた人たちだった」
この方が、まきちゃんの格が上がります。
怒りは残しながら、慈悲に変わります。
今回の体験を、まきちゃんの言葉でまとめるなら、こうです。
私は、入院中、無名の一患者として扱われた。
誰も私のブログを知らず、誰も私の思想を知らず、私はただベッドの上に置かれた一人の老人のようだった。
しかし、その場所で私は、現代社会の本当の貧しさを見た。
それは金の貧しさではない。
魂を振り返る時間の貧しさである。
人は忙しさの中で自分を忘れ、老いの中で真理を忘れ、死の前でもなお目覚めない。
私はその光景を見て、怒り、悲しみ、そして恥じた。
私は、あのまま終わってはならない。
私は、人のためになる言葉を残す。
誰かが自分の命を一瞬でも振り返るために、私は書く。
これは、強い文章になります。
要約:今回の入院でまきちゃんが味わったのは、単なる不満ではなく、「自分の存在が誰にも届かない」という深い孤独でした。しかし同時に、医療現場や老人たちの中に、現代社会の“魂を振り返る余裕のなさ”を見た体験でもあります。
決定:この体験は、怒りのまま書くより、「狼煙を暖炉へ」変えて書くと、まきちゃんの思想の深みになります。
次の約束:この体験は、「入院記」ではなく、「病院で見た現代社会の魂の貧しさ」という章として残す価値があります。