事務所や寮は無キズ 進歩党総裁選に一役買う

私は東京から出張している重役六名といっしょに昭和二十年八月十八日夜、大田駅から釜山に向けて引き揚げた。もちろん着たきりという姿であった。一晩釜山の将校宿舎で泊めてもらった私たちは、兵隊の案内で二十日の朝、埠頭へ出た。水兵が海防艦にかます入りの米を積み込んでいた。埠頭にある水道の蛇口に口をつけて水を飲もうとする水兵一人から一円ずつ料金を徴収している朝鮮人がいたのにまずびっくりした。

その日はまだ関釜連絡船の運行は危険とのことで停止中であった。「米の積み込みがすんだ海防艦が舞鶴軍港までかえるので乗るように」との連絡であったが、いってみると女と子供だけの集団であった。しかも第一番に私たちが呼び込まれたのには驚いて、船が港を出てからきいてみたら「あなたがたは田中菊栄ほか六名です」といって笑っていた。乗船名簿には田中角栄と確かに書いたのに、私の角をくずして書くと菊と読めるわけである。鼻ひげをはやしたとんだ娘子(じょうし)部隊である。この艦は海防艦三十四号であり、艦長は海軍大尉小田島保治であった。この海防艦上で女児がうまれ、そしてこの艦名にちなんで三四子と名付けられたが、すぐ死んでしまった。艦旗に包まれた小さな包みが港の上におろされたとき、みんな顔をそむけて泣いた。

舞鶴港入港を目の前にして「本州北端を迂回し横須賀港に直行せよ」の命を受けて、艦は佐渡が手の届きそうな沖合を北上していった。あいにくその夜、三陸沖を台風が通ったため、先発の艦だけ二、三横須賀軍港へ直行したが、三十四号は三陸沖から反転して青森港にはいった。空爆でくすぶりつづけているような青森駅は樺太からの引き揚げ第一陣でいっぱいであった。しかも細い雨が降っている夜私たちはじゃり貨車の上に、マントで包んだからだを横たえた。浅虫の灯がみえたとき「いつかこの温泉に降りてみよう」などと、とりとめもなく考えたことを今も覚えている。仙台駅ではマッカーサー元帥の厚木進駐のため、解隊を促進されて郷里に向かう兵隊たちをのせた汽車と、樺太の引き揚げ者をのせた汽車が偶然にすれ違った。私は暗然とした気持ちで窓を見上げた。

東京へは八月二十五日未明に到着した。どこも焼け野原となったのに、江戸川河岸の四百坪ほどの製材工場が焼けたきりで飯田町の一、二丁目町内に散在していた十カ所余りの事務所も住宅も寮もアパートも無きずに残っていたのには驚いた。そのうえ疎開のため無理にと頼まれて買った電車通りの魚屋までが焼け残っていたのである。私はそれもこれも神様のおぼしめしだと思いながらも、世の中のために、私のなし得る何かをしなければならないと心の奥で激しく感じた。

私はそのころ牛込南町の高台にある洋館に住んでいた。私の会社には昭和十八年ごろから大麻唯男、白根松介、岩崎英祐という顧問が三人いた。その後、正木亮を加えて四人になるのである。その年の十一月のある日、大麻さんから新橋の「秀花」という料亭に呼ばれたので、いってみた。小さなかどの家(現在の新春が当時の秀花である)で、家の中は人気もなくガランドウとしていた。大麻さんは道具もじゅうたんさえもない寒々とした洋間の奥にいすを一脚だけおいて、それに腰をかけていた。

話を要約するとこうだ。占領軍は大日本政治会を解散した。しかし、この十二月三十一日には占領軍の命令で衆議院が解散されて、来年の一月三十日には投票が行なわれる予定である。選挙に間に合うように新しい政党として進歩党を結成したが党首問題で困っている。宇垣一成と町田忠治の二人が総裁の候補者だが、二人とも譲らないのだ。そこで、選挙も目の前なので早く三百万円つくってくれた人を総裁にするとこの二人に提案したのだが、自分は町田を推している、ということであった。結論をいうと「君、いくらか出してくれんか」ということであった。私は快く承諾した。

それから半月ほどして大麻さんから「こんどの選挙に立候補しないか」という話があった。私は代議士になる気はなかったので一度はことわったが、二回ほど重ねて話があったので、そのころ鹿島組をやめて私の土建会社の監査役をしていた塚田十一郎君(現新潟県知事)に口をかけてみたが、彼もまた頭を横に振ってだめであった。大麻さんの側近として中井川浩、野田武夫(後の総務長官、現代議士)の両代議士や唐沢俊樹(後の法相、現代議士)という人たちがこの話のいわば推進役でもあった。私はしまいに「いくらくらい金が必要ですか」ときいたら「十五万円出して、黙って一カ月間おみこしに乗っていなさい。きっと当選するよ」。私がこの一言に迷った結果、進歩党公認候補として衆議院総選挙に立候補の冒険をあえてするはめになるのである。

その年の暮れ、すなわち昭和二十年の十二月とは、私がまだ二十七歳のときのことである。