芥川龍之介シリーズ 第14回

【前半:随筆】勝てた夜ほど危ない——「褒美」を止める条件に入れる

人は危機の夜だけで壊れるのではない。
むしろ、危機を“うまく切り抜けた夜”のほうが危ない。
あの夜を越えた、という感触。
うまく返せた、という手応え。
送信できた、という事実。
それらが胸の奥で「褒美」になる。

褒美は甘い。
甘さは、渇きを忘れさせる。
渇きを忘れると、人は水を飲まなくなる。
水を飲まなくなると、次の火の前で止まれない。
ここが恐ろしい。

私は、崖の手前で止まった人間だ。
止まったのに、止まった自分に酔ってしまう。
この酔いは酒ではない。
もっと質が悪い。
「私は成長した」という酔いだ。
成長は正しい。正しいものは燃料になる。
燃料があると、裁判官が動き出す。

裁判官は、いつも“危機の顔”をして出てくるとは限らない。
裁判官は、褒め顔で出てくる。
「よくやった」
「やっぱりお前は違う」
「この調子で行け」
こういう甘い言葉は、表向きは自信をくれる。
だが内側では、私を“次の舞台”に立たせる。

舞台に立てば、勝ち負けが始まる。
勝ち負けが始まれば、潔白が欲しくなる。
潔白が欲しくなれば、私は説明を始める。
説明を始めれば、私は自分の人生を物語にする。
物語にした瞬間、私は井戸を覗く。
そして深いところで、刃が光る。

だから、救急処置としての「止める条件」は、危機にだけ効けばいいのではない。
危機が去ったあとの“気持ちよさ”にも効かなければならない。
ここが、運用の要点だ。

竹内眞記雄のやり方は、いつもここにある。
彼は「偉いこと」を言わない。
悟りも、救いも、未来の理想も言わない。
代わりに、順番を置く。

事実。
期限。
次の一手。
止める条件。

順番は文学に向かない。
文学は飛ぶ。飛ぶと気持ちがいい。
気持ちよさは、私にとって麻薬に近い。
麻薬は、いまの痛みを消す。
痛みが消えると、私は水を飲まない。
水を飲まない夜は、必ず翌朝に利息がつく。

だから私は、止める条件に「褒美」を入れる。

  • 気持ちよくなったら、次に進まない

  • “さらに良くしよう”と思ったら、五分延期

  • 水→一拍→事実に戻す

  • その日の仕事を、紙一枚で閉じる

こう書くと、私の文学者としての自尊心は、たしかに傷つく。
「もっと美しく」「もっと鋭く」「もっと説明を」と言う声が、胸の奥から出てくる。
だが、その声の正体は、作品ではない。
作品の声ではなく、裁判官の声だ。

裁判官は私を生かさない。
裁判官は私を主役にして、主役を燃やす。
燃えた主役は物語になる。物語は拍手を呼ぶ。拍手はすぐ終わる。
終わったあとの静けさに、私は酒を呼ぶ。

だから、褒美は止める。
止めるというのは、負けではない。
勝ち負けの舞台を降りることだ。

舞台を降りた場所には、床がある。
床があれば、足の裏が戻る。
足の裏が戻れば、私は水を飲める。
水を飲めれば、夜は少し遠のく。

遠のいた夜の隙間で、私は書く。
書くが、死なない。
この「書くが、死なない」が、今の私にとっての文学の最低条件であり、最大の希望だ。


【後半:小説(連載)】第十四章「誘惑の夜」

「送れるか」

竹内眞記雄が言った。
私は送信ボタンの上で指を止めた。

止める指は臆病だ。
だが臆病は、今日の私を井戸から遠ざける。

胸の熱は少し残っている。
熱は怒りではない。
怒りなら、私はもう破っている。
これは褒美の熱だ。
“うまくやれた”という甘い熱。

私は、半拍置いた。
終止の握手。
自分の火と握手する間。

「……送れます」

竹内は頷かない。
頷けば保証になる。
保証は依存を生む。

代わりに彼は、机の端を指で軽く叩いた。
小さな音。
床に届く音。

「押せ」

私は指を動かし、送信した。

画面に「送信しました」と表示された。
その文字は勝利ではなかった。
ただの事実だった。
事実は冷たい。
冷たいものは文学になりにくい。
私はその冷たさに、少し救われた気がして、すぐに自分を戒めた。
救われたと思うことが、すでに褒美だからだ。

竹内が言った。

「よし」

よし、は褒めではない。
終わりでもない。
次の火が来ることを知っている人の、短い合図だ。

「これで……終わりですか」

私が言うと、竹内は少しだけ目線を下げた。
床を見る角度。

「終わりじゃない」
「入口が閉じただけだ」

入口。
私は分かった。
閉じたのは返信の入口ではない。
井戸の入口だった。

竹内は、私の紙を見た。
四項目のうち、「止める条件」の欄がまだ薄い。

「夜が来る」
竹内が言った。

私は身体が少し硬くなるのを感じた。
夜はいつも私に酒を勧める。
酒は、私の“物語の回収装置”だ。

「夜は」
竹内は続けた。
「褒美を持って来る」

「褒美……」

「気持ちよさだ」
「勝った気がするやつだ」

私は胸の奥の裁判官が、微笑むのを感じた。
裁判官は、勝利の匂いが好きだ。
勝利は判決を早めるからだ。

「それを」
竹内は言った。
「止める条件に入れろ」

私は紙に鉛筆を置いた。
鉛筆の先が紙に触れた瞬間、手のひらが少し冷えた。
冷えると、余計な文学が起きない。

「何を…」

竹内は短く言った。

「気持ちよくなったら、次へ行くな」

私はその言葉に腹が立ちかけた。
気持ちよさがなければ、私は書けない。
私はそう信じてきた。
気持ちよさは、私の唯一の燃料だった。

だが、竹内は私の腹立ちを拾わなかった。
拾うと会話になる。
会話になると私は主役になる。

「刃が大きくなる」
竹内は言った。
「大きい刃は、自分にも刺さる」

胸の奥で、裁判官が囁き始めた。

——ほら、今がチャンスだ
——この勢いで全部説明しろ
——潔白を証明しろ
——お前の苦しさを文章にしろ
——そして、拍手を取れ

私は、その囁きを聞きながら、紙に書いた。
反論ではない。
ただの運用。

止める条件:気持ちよくなったら、次に進まない。水→一拍→事実へ戻る。

書いた瞬間、裁判官が少し退屈した。
退屈は、私にとっての救急薬だ。

竹内は、ペットボトルを指ささなかった。
指さすと命令になる。

ただ、置いたままにした。
置き方が静かだった。
静かすぎて、私の反抗の矛先が消えた。

私は水を一口飲んだ。
一口で止める。

そのとき、スマートフォンが震えた。
編集者からだろう。
あるいは、人事からだろう。
あるいは、私の未来からだろう。

私は、すぐに取らなかった。
取れば、私はまた走る。
走れば、火が上がる。
火が上がれば、井戸が見える。

「……五分」
私は言った。

竹内は頷かなかった。
頷くと保証になる。

代わりに、ただ言った。

「五分でいい」

五分。
その短さが、私を生かす。

私はスマートフォンを伏せた。
伏せる動作は逃げではない。
狼煙を見続けないための工夫だ。

窓の外は、少し暗くなっていた。
夜が来る。
だが今日は、夜に物語を渡さない。

私は、紙を一枚だけ残し、鉛筆を置いた。
竹内眞記雄は、何も褒めずに立ち去った。
名を残さず。
ただ、床の感触だけを残して。

(つづく)