三島由紀夫シリーズ 第7回
前半:随筆「優しさは、形を持った瞬間に疑わしい」
私は優しさというものを信じたい。
しかし優しさが「言葉の形」を取った瞬間、私は疑ってしまう。
優しさは本来、行為の側に宿る。
水を置く。扉を開ける。荷を持つ。時間を作る。
これらは説明を要しない。説明を要しない優しさは、相手の体裁を奪わない。
ところが、優しさが言葉として現れるとき、それはしばしば「丸め」の道具になる。
「無理はするな」
「気にするな」
「まあ、そういうこともある」
これらの言葉は、相手を救うようでいて、実は相手の痛みを“軽く”する。
軽くされた痛みは、存在を否定される。
否定された痛みは、より深く残る。
残る痛みは、いずれ形を求める。
形を求めた痛みは、怒りか、冷笑か、沈黙になる。
世間体は、優しさを好む。
なぜなら世間体は、角が立つことを嫌うからだ。
角が立つというのは、現実の輪郭が見えることだ。
輪郭が見えると、誰かが責任を引き受けなければならない。
責任を引き受けるのは、格好悪い。
格好悪いものを、世間体は排除する。
だから世間体は、優しさを使って輪郭を消す。
礼は、逆だ。
礼は輪郭を残す。
礼は、角を保つ。
角を保つことは、攻撃ではない。
角を保つことは、崩壊の予兆を見逃さないための形式だ。
礼とは、従順の姿ではなく、背骨の姿である。
背骨は美しい。
美しいのは、背骨が嘘をつけないからだ。
背骨は曲げられるが、曲げられた背骨は痛む。
痛みは嘘をつかない。
嘘をつかないものを、美と呼ぶ以外に、私は言葉を持たない。
後半:連載小説
第七章 「礼の刃」
午後の光は、会社の窓ガラスで二度反射し、慎吾の机の上に白く落ちていた。
白い光は清潔だ。
清潔なものほど、汚れを強調する。
汚れは罪のように見える。
罪のように見えるものは、組織にとって都合がいい。
慎吾はノートを閉じ、指先で机の縁をなぞった。
机の縁は、冷たい。
冷たい縁は、現実の温度を思い出させる。
現実は温かくない。
温かくない現実の中で、温かい言葉だけが漂うと、言葉は毒になる。
上司のチャットの文面が、まだ目の奥に残っていた。
「無理はするな」
慎吾は、その一文を頭の中で何度も転がした。
転がすほど、金属の味がした。
金属は血の前触れに似ている。
無理をするな。
つまり、無理をしているお前は“問題”だ。
問題を抱えた人間は、丁重に扱われる。
丁重に扱われた人間は、遠ざけられる。
遠ざけられた場所で、人は自分の背骨を抱きしめるしかなくなる。
慎吾は立ち上がり、コピー機の前まで歩いた。
コピー機は唸っている。
唸りは、機械の礼だ。
機械は文句を言わない。
文句を言わないものは、使いやすい。
使いやすいものは、使い潰される。
慎吾は一瞬、自分が機械に似ていることを思い、嫌悪した。
紙を一枚、何も印刷せずに出した。
白紙。
白紙は、提出できない。
提出できない白紙は、自由に見えて一番不自由だ。
何を書いても良いという不自由。
何を書いても責められるという不自由。
そのとき、背後から声がした。
「慎吾」
同僚だった。
いつも笑う同僚だ。
笑いが得意な人間は、空気の温度を変えられる。
温度を変えられる人間は、権力者に好まれる。
好まれる人間は、危険な橋を渡らない。
「聞いたよ」
同僚は言った。
「大変だったな。……無理すんなよ」
二度目の「無理すんなよ」。
同じ言葉が重なると、言葉は真実ではなく儀礼になる。
儀礼になった優しさは、ただの世間体だ。
慎吾は白紙を手にしたまま、同僚を見た。
見た瞬間、胸の奥で火が動いた。
薪が欲しがる火だった。
――言い返せ。
――皮肉を言え。
――お前も同じ空気の側だろう。
火は、正しさの顔をしている。
正しさの顔をした火は、最も人を破壊する。
慎吾は、一拍置いた。
一拍は礼だった。
礼は相手への礼ではない。
自分の火へ向けた礼だ。
「ありがとう」
慎吾は言った。
声は低かった。
低い声は、言葉を逃がさない。
同僚は安心したように笑った。
安心の笑いは、空気の勝利だ。
空気は勝つと、さらに丸くなる。
慎吾は笑わなかった。
笑わないことは角だ。
角は、守るべきものがある人間の形だ。
「でも」
慎吾は続けた。
「“無理するな”って言葉は、危ない」
同僚の笑いが止まった。
止まる笑いは、刃の気配を嗅いだ合図だ。
「え?」
同僚が言った。
慎吾は白紙を机に置いた。
白紙を置くのは、床を作る行為だ。
床があると、言葉は飛ばない。
飛ばない言葉は、刺さりにくい。
刺さりにくい言葉は、真実を運べる。
「無理をしてる側が」
慎吾は言った。
「無理をしてるって認めると、罪になる」
「罪になると、遠ざけられる」
「遠ざけられると、直すべき場所が直らない」
同僚は眉を寄せた。
眉は防御だ。
防御は悪ではない。
だが防御が早すぎると、会話が死ぬ。
「そんなつもりじゃ……」
同僚が言った。
「分かってる」
慎吾は言った。
分かっている、は赦しではない。
確認だ。
意図と結果は別だという確認。
確認は、倫理の最小単位だ。
同僚は白紙を見た。
白紙は鏡のようだ。
鏡は嫌われる。
鏡は自分の姿勢を映すからだ。
慎吾は続けた。
「俺が欲しいのは優しさじゃない」
「欲しいのは、段取りだ」
「直す順番だ」
「誰が、いつ、何をするかだ」
同僚の喉が動いた。
喉が動くのは、水を求める合図に似ている。
だがここには水がない。
世間体の会話は、水を置かない。
「……そんなの、上が決めるだろ」
同僚が、やっと言った。
慎吾は、そこで初めて小さく頷いた。
頷きは同意ではない。
礼の続きを置くための合図だ。
「上が決めるなら」
慎吾は言った。
「俺は、上が決めるための“現実”を置く」
「置かないと、上は空気で決める」
「空気で決めたら、誰かが折れる」
「折れたら、戻らない」
戻らない。
またその言葉が、口の中で金属の味を帯びた。
金属の味は、覚悟の味だった。
同僚は何も言えずにいた。
言えない沈黙は、相手の中で何かが崩れている証拠だ。
崩れは悪ではない。
崩れは、別の形が始まる兆しだ。
慎吾は白紙を拾い、今度はそこに一行書いた。
力を入れずに、しかし逃がさずに。
「段取りが、礼である」
書いた文字は、細い。
細い文字は弱く見える。
だが細い文字ほど、折れないことがある。
太い文字は、力に頼る。
細い文字は、背骨に頼る。
慎吾は白紙を畳み、胸ポケットに入れた。
白を胸に入れる。
それは、稽古着を着るのと同じだ。
稽古着は見せるためではない。
崩れないための形式である。
その日の夕方、慎吾は道場へ向かった。
畳の匂いが、胸の中の金属味を少し薄めた。
師範は短く言った。
「構え」
慎吾は構えた。
足が自然に開く。
自然とは、努力が沈んだあとにしか使えない言葉だ。
師範は一言だけ付け足した。
「今日は、礼を抜くな」
礼を抜くな。
慎吾は、息が少しだけ深くなった。
礼を抜かない。
それは、世間体に負けないことではない。
自分の背骨を、返さないことだった。
(つづく)