いつもありがとうございます!

笑顔と子どもをの竹内まさおりです^^

 

ハロウィンが終わり、吉祥寺のクリスマスツリーも完成しましたね!

(吉祥寺駅での街頭活動にて)

 

さて、10月11月は里親月間というはご存知でしょうか。

東京都が各自治体と連携し、養育家庭の体験談の発表会を行っております。

実は、私の知り合いも養育家庭をやられておりまして、どのようなものなのか行って参りました。

 

養育家庭とは、養子縁組とは異なり、籍を移したり、親権を持つことなく、一定の期間、子どもを家庭で擁護することであります。

通称ほっとファミリーと呼んでおります。

 

様々な事情で、親と暮らせない子どもは全国で約3万人、そして都内では約4,000人。

そして、海外と比べ、日本では里親制度が浸透していないと言います。

 

当事者の体験談を聞いて、初めて私も理解、イメージできるようになりました。

里親、里子の胸の熱くなる体験談の発表集も発行されておりますので、以下添付致します。

養育家庭という制度が少しでも認知されることを願います。

---------------------------

東京都福祉保健局少子社会対策部
養育家庭(ほっとファミリー)
平成29年度体験発表集
 

【里父】 ファミリーホームをしております○○です。唐突ですが、私と家内は見合い結婚です。 不思議なもので、男女が知り合って、結婚して家庭を築く。当たり前の世界なんですけ れども、全く血のつながりもない、見ず知らずの者同士が家庭というものを築く中で、 当然、子供ができます。できない場合もありますが、私どものところは、1人目の子が 女の子、2人目の子も女の子でした。3人目も女の子で、4人目も女の子でした。 当時、私は居酒屋に勤務しており、朝と夜が逆の生活をしていました。昼ごろ出て、 夜遅く帰ってくるものですから、子供との接触が非常に少なかったです。だから、たま に子供たちの休みの日に私が昼ごろ出勤すると、子供たちはにこにこしながら、行って らっしゃいと言ってくれるのですが、最後に、また来てねと言われます。子供に私がど のように映っていたかよくわかりませんが、これはちょっときつかったですね。 一番下の子が小学生になり家内に時間ができ、これからどうしようかと考えたときに、 里親というものを知っていたものですから、私に、里親をやってみたいという話を持っ てきました。 その時、私はまだ居酒屋をやっており、里親というものを全く知りませんでした。ち ょっと内容を聞いてみたら、行き場がなくなった子供たちに、教育、養護、そういった ことが必要なことがわかりました。そのときの家の状況は、女の子ばかり4人でしたけ れども、1人ぐらい来てもどうってことないかなと思い、里親認定の手続を始めました。 認定がおりて、委託の最初の子が来るまで1年半か2年ぐらいかかったと思います。 最初の委託の子は男の子でした。その子は4人きょうだいの末の男の子でした。帝王切 開で生まれたときにお母さんが亡くなり、育て切れないということで乳児院に預けられ ました。うちに委託の話がきた時2歳ぐらいでした。女の子ばかりで、男の子は初めて でしたが、育てられない状況があると聞いたので、即受けました。 女の子の中で一番末っ子の男の子ということで、何の問題もなく健やかに育ってくれ ました。うちの子供たちもよく面倒を見てくれました。小学校入学まで見て欲しいとの ことだったので、4年間預かり見させていただきました。小学校入学で自宅に戻ってい きました。 初めての子が自宅復帰する前に、次の子供を受けました。3歳の男の子で、その子に はちょっと知的障害がありました。今もうちにおります。 その後、当時5歳の男の子で、聾の子供でした。耳が聞こえない子なのですがと連絡 があった時、私はたまたま夏休みで家にいました。児童相談所から、他の里親さんの受 け入れもなく、施設からも受け入れできないと言われ、行き場がないんです。何とか見 てもらえませんかと電話がありました。子供は児童相談所の一時保護所にいるので会っ てもらえないかと言われ、私が休みという偶然も重なり、家内と会いに行きました。さ すがに、耳が聞こえないということで、受けるかどうかすぐに返事はできませんでした。 1 血のつながりはないが、うちの子供達に相談したところ、「手話の勉強をしなきゃいけないね」と前向きな返事 に、迷いもなくなり、その子を受け入れることにしました。偶然なんですが、その子は 男女の双子でした。実は、私も男と女の双子なんです。ちょっと因縁めいたものを感じ ました。 その後、4歳の女の子が来た時点で子供が4人になりましたので、念願のファミリー ホームになるための準備をはじめました。居酒屋の仕事を続けながらファミリーホーム は無理であると思い、児童養護施設に転職しました。当時、施設がどういうものかと自 分なりにいろいろ調べたら、戦後の孤児院が児童養護施設であることが分かり、当時の 子供達が置かれていた状況を考えると胸が痛くなりました。 2年前にファミリーホームを設立いたしました。設立後、5人目の16歳の女の子を受 けました。この子は緊急一時保護ということで、お昼の3時ごろ電話があり、夜の8時 ぐらいに、学校のかばん一つで家に来ました。過去の子供たちもうちに来るときは手ぶ らであったり、段ボール一つという形でうちに来ました。それだけでも、小さいながら に、目には見えない傷を負ったまま生きているのだなと感じました。 今年6人目の子が来ました。2歳の女の子なんですが、私の年からすれば、孫に等し く、反面、すごく生きがいというか、そんな感覚で接しております。 私は今施設で働き、ファミリーホームをしています。施設とファミリーホーム(里親) との違いですね。子どもが育つには家庭的養護が一番だとは思います。けれども、施設 でないといけない子も実際にいることも感じております。その中で、逆に里親さんから 施設に戻って来る子、そういう子も現実にいることがわかりました。里子を育てること の難しさをしみじみ感じております。私たちは血のつながりがなく、法律的には親権も ないのです。子供たちは、実の家族はないけれども、育ったところが里親であるなら、 実の親から見放されたことも事実であるし、血のつながりのない里親というところで生 活をしているというのも事実であります。その中で、18歳になれば自立していくわけで す。 今、預かっている子供たちは、恐らく18歳までうちにいると思います。そうなったと きに、それまでに子供たちに何をしてやれるか。個性があるから難しさもあると思って います。しかし里親という形で知り合ったのも縁。私とかみさんが知り合ったのも縁だ と思っております。血のつながりのない者同士で家庭を築けるのであれば、血のつなが らない親子がいてもおかしくはないと思っております。私たち夫婦の夢は、子どもたち が結婚し、幸せな家庭を築き、孫を連れて“ただいま”と帰ってきてくれる事です。ひ とりでも多くの孫が抱けるよう、その日を楽しみに、ひとりでも多くの子どもと“縁” をもちたいと思っています。

 

【元里子】 僕は生まれてから乳児院で育ち、3歳の時に児童養護施設に移りました。 小学3年生まで児童養護施設で過ごし、小学4年生の時に養育家庭にいきました。 今は高校を卒業して働いて2年目になります。 小学校4年生の時に里子になりましたが、その時に、自分自身は里子になることへの 心配は特になく、一つ上に里子の姉がいたので、その姉とゲームをしたり、里親さんが 飼っている犬と遊んだりすることが楽しかったのです。本当に遊ぶことの楽しみばかり で、里子になるということについての心配などはありませんでした。 養育家庭で生活をしていて良かったことは、普通の家庭みたいな環境で過ごせたこと です。困ったことというのは、一般家庭の皆さん、普通の家庭で育った方々と自分は特 に変わらないんじゃないかなと思います。自分は里子だから他の子とは違うというふう な里子としての意識はなかったので、一切困りませんでした。 自分の中では、養育家庭と児童養護施設は、大げさに言うと日本とアメリカぐらい違 うんじゃないかなと思います。児童養護施設は、とにかく自由がありませんでした。小 学校から帰ってから、普通の子はそのまま友達と遊びに行ったり、何か買い物に行った りすることもできるんですけれど、児童養護施設だと小学校から帰った後は施設から外 に出てはいけなくて、施設の中で遊ぶことしかできませんでした。とにかく不自由なこ とが多かったことが、自分は本当に嫌でした。 養育家庭は、学校から帰ってからすぐに友達と公園とかに遊びに行けて、コンビニに 好きなお菓子を買いに行くもこともできて、とにかく自由というか、色々なところに行 って色々な経験をさせてもらいました。また、施設だと、年上のお兄さん、お姉さんが 毎日テレビのチャンネルを独占していじっていたので、自分の好きな番組は一切見るこ とができなかったんですが、養育家庭だと自分の好きな番組が見れて、本当にとても嬉 しかった記憶があります。 中学生、高校生になってからは、普通の子と同じく反抗期に入ったりして、本当に毎 日くだらないことで里親さんとけんかをしていました。学校に行くぎりぎりの時間に起 きて怒られたり、食べ物の好き嫌いのこととか、本当にくだらないことで毎日のように けんかをしていました。でも、そういう怒ったり怒られたりの関係は、自分は本当に家 族のように思っていたし、普通の家庭でもこういうことがあるだろうなと思います。そ の時は、里親さんに怒られて「こんな家を出ていきたい」とか口では言っていましたが、 本心では全く思ってはいませんでした。 措置解除についてですが、自分は高校を卒業してから就職して会社の寮に住むことに なりました。措置解除後は、里子と里親の関係ではなくなってしまうと聞いていました が、一つ上の里子の姉も措置解除後に里親宅から出た後も、毎週のように里親さんの家 に帰ってきて、子供たちと遊んだり、御飯を一緒に食べたりしていたので、自分もそんなに措置解除のことは意識していませんでした。里親、里子、家族みたいな関係がなく なるわけではなく、普通の一般家庭のように里親さん宅を実家みたいな感じで帰ってこ れることを知っていたので安心していました。後は、卒業後の仕事のことで頭がいっぱ いだったからそんなに気にならなかったのかもしれません。 でも、実際に措置解除となった後に、結構困ったことが多かったです。国は18歳で 大人だからといって措置解除になるのかもしれないのですし、最近になって選挙権も1 8歳からになりましたが、やっぱり世の中は18歳を大人だと見てくれないんですね。 最近も新しいiPhoneが発売されて、自分も携帯の機種変更をしたいなと思って、携帯 屋さんに行ったら「20歳じゃないから保証人が必要」と言われてしまいました。でも、 措置解除後は里親ではなくなっているので、今、保証人というのが僕には一人もいない 状態になるんですね。今も19歳なので一人でローンを組むことができないですが、ア パートを借りるにもやっぱり「身内の保証人が必要」と言われてしまって、結局自分で は借りることができませんでした。そういった面で、後々になって、措置解除は20歳 にしてもらったら良かったなという気持ちがあります。僕は高校を卒業して一人暮らし というか寮に入ったのですが、いくら就職するからといっても、何年か里親さんのとこ ろに住んで、里親さんのところから仕事に行けたらよかったなと思うのが僕の本心です。 これから里親さんになりたいと思っている方へのメッセージをお願いしますと言われ ているのですが、僕は里親さんのところにいった時に里子の姉がいたから楽しかったな と思っています。1人で里親さんのところに行っても、やっぱり子供が1人だけだった ら、施設には沢山友達もいたので、施設のほうが楽しいんじゃないかなと思ったかもし れません。里親さんが2人の里子を預かることは難しいとは思うのですが、僕は里親さ ん宅にペットの犬がいて、その犬と遊ぶことが本当に心が安らいだので、2人預かると いうのが難しい方は、ペットがいるといいんじゃないかなと思います。 最後に、結構施設のことを悪く言ってしまってところがありますが、施設で育つのと 里親さんのもとで育つのは、本当に経験できることが全く違うんです。やっぱり父と母 と呼べる存在ができることや、帰る家ができるということは本当に大事なことだと思い ます。 今施設にいる子が家庭で生活できるような環境がもっと増えていったら、僕もすごく うれしいなと思います。

 

【元里子】 私は、生後すぐ乳児院に入り、その後、児童養護施設で生活し、小学校入学前に里親 さんと出会いました。その頃の記憶は、とても衝撃が大きく、強く印象に残っています。 当時の私は、施設の担当職員が大好きでした。初めて宿泊をした日、私は施設のこと を思い出し泣いていました。涙がとまらず御飯が食べられなかった私に、里親さんの実 子のお兄さんが私を屋根裏部屋に連れていってくれました。そこできれいな星空を見た 時、なぜかすごく安心して不安がすっとなくなりました。そして、夜寝る前に里親さん のお父さんが、私が大好きだった『エルマーとりゅう』を一日で一冊全て読んでくれま した。 私が里子になり、とても悩んだことがあります。それは、里親さんのお母さんを何と 呼ぶかでした。私は、施設の職員の方をママと呼び、実の母をお母さんと呼んでいまし た。しかし、里親さん宅の里子達は、里親さんをママと呼んでいたのです。ママという のは施設の職員の方一人だと思っていたので、ママと呼ぶのにとても抵抗がありました。 そこで、実の母とはあまり会っていなかったので、お母さんと呼ぶことにしました。 小学校に入学し、新しい友達と出会い、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。また、 里子や里親さんの実子も多く、毎日が冒険のようでした。私が周りと違う事で抵抗が芽 生え始めたのは、中学生の時でした。きっかけは、里子の妹と私の外見が全く違う為、 「あれが妹なの?」と言われた事でした。見た目は違っても本当の妹のように思ってい ましたし、私にとって自慢の妹でした。それから自分の環境について考えるようになり ました。丁度、第二反抗期と重なり、同じ里子への不満の思いが出てきて「私より可愛 いがり過ぎじゃない」「同じ点数の私の事は褒めないのに、あの子の事は褒めて」など、 沢山の不満を口に出しました。しかし本心では、いつも私のことをしっかり見てくれて いて、優しくて温かな眼差しを向けてくれている里親さんのことはわかっていました。 高校に入学すると、この子なら受け入れてくれると思えるかけがえのない友人ができ ました。しかし、高校2年生の時に別々のクラスになり、それからとてもつらい時期が始 まりました。私の人見知りは激しくなり、教室での休憩時間は音楽を聞くか寝て過ごし ました。「おはよう」と言う友達がいない事がすごく悲しくて、学校に行く意味をすご く考えました。特に高校3年生の秋までは、とても辛かったです。学校には行きたくない が、「行かないのは負けだ」という思いがあり、遅刻してでも行っていました。 私が極度の人見知りになったのは、家族の話をする事に抵抗があったからです。初対 面での会話では、家族構成を聞かれる事が多く、特に「写真を見せて」と言われ、見せ た後は「似てないね」とか、気を使われ「○○が似ているよ」と言われる事がとても嫌 で、人と関わることを避け始めました。その時期の私は、家での態度も酷く、今でも思 い出すと申し訳ないと思います。しかし、そのような時でも、里親さんはいつもおいし い御飯とお弁当を作ってくれて「行ってらっしゃい」と言って送り出してくれました。 高校3年生の夏休みは、アルバイト、大学推薦用及び奨学金用の書類作成、塾通いと、 忙しい日々が続きました。同級生が受験勉強に励んでいるのに、私は作文を書いている という事が遅れをとっているようで、葛藤があり、周りの友達を羨ましく思いました。 また、アルバイトをしても、私はこのお金に手を付けず、大学に進学してひとり暮らし をするために残しておかなくてはいけない、ということがとても辛かったです。奨学金 で給付のものは、選考があるために手を抜くことはできませんでした。たくさん文句を 言っていた私をいつも励ましてくれたのも里親さんでした。そして、一緒に山ほどある 奨学金の書類を作成してくれました。 大学入学と同時にひとり暮らしを始めました。私は高校3年生まで、いつも二人部屋で した。高校生の時、一人の時間が欲しいと思うようになり、大学入学後は、憧れのひと り部屋で憧れのひとり暮らしでした。しかし、ひとり暮らしを始めてからは、掃除、洗 濯、家事と毎日やることが沢山あり、アルバイトもしなくてはいけません。また奨学金 の事もあるので、勉強も手を抜くことができません。今まではおいしい御飯を何もせず 食べていただけでしたが、ひとり暮らしを始めてから、今日も麺、明日も麺、毎日麺と 麺類生活になってしまいました。食生活の乱れからか、以前よりも風邪を引くようにな り、高熱を出す事も増えました。ある日、車で往復1時間半かけてお母さんがお見舞いに 来てくれたことがありました。わざわざ私のためにと大好きな果物まで持って来てくれ たのに、本当は掃除も洗濯も家事も山ほど溜まっていたのに、「何にもしないでいいか ら早く帰って」という態度をとってしまいました。本当は、とっても嬉しかったです。 一人暮らしを始めて、客観的に自分が今までいた里親さん宅の環境を見るようになり ました。私には今、2人の妹がいるのですが、その妹たちの家での態度を見ると、何を怠 けているのだとすごく思います。しかし振り返ると、自分も同じように甘えていたなと 思いました。今は、甘えられる環境がある妹たちがとても羨ましいなと思います。 私は大学生になってから、自分が福祉を学んでいるということもあって、家の事を余 り隠さなくなりました。また、人見知りも徐々に消え、大学ではたくさんの友達ができ ました。大学で出会った友達に家の話をよくするのですが、その時に私の友達はこう言 ってくれます。「○○のおうちは楽しそう。○○から聞くお父さんとお母さんってすご く素敵な人なんだろうね。いいな、羨ましいな。」と。私にとって家族は何にも変えら れない大切な存在であり、自慢の家族です。血縁関係があるないにかかわらず、新しく やってきた里子を自分の子供のように愛している里親さんを尊敬の眼差しで見ています。 今では私も、今日からこの子は妹だと思うと、こんな素敵な家でこの子はどんな子にな っていくのだろうと思うようになり、胸がいっぱいになります。それは、私が今、こん な素敵な家で育つことができたことを誇りに思っているからです。毎月のようにある誕 生日会。こんなふうに豪華に祝ってもらえるこの幸せを大切にしたいと思います。そし て、私たちのように社会的養護の中にあるたくさんの子供たちが温かい家庭と出会えた らいいなと思っています。

 

【里母】 実子が2人います。2人とも大学を卒業と同時に仕事の関係で家を離れ、ひとり暮ら しをしています。あとは雄ネコが1匹と、二世帯住宅なので、同じ建物内に夫の母がい ます。きっかけは、実子たちがまだ小学生のころ、フレンドホームのリーフレットを見 て、私たちにもできることがあると思ったのがきっかけです。下の子が大学生になった ときに、フレンドホームに登録しました。3年後に3歳9カ月の男の子と出会い、6歳 になるまで交流させていただいたのですけれども、別の施設に彼が移動しなくてはいけ ないということで、会えなくなってしまいました。あとから彼は自分も里親宅へ行くの かなって思っていたことを知り、施設で暮らす子供たちが制度の中で傷ついている姿を 目の当たりにし、そのつらさが私たちの背中を押したんじゃないかなと思っています。 自分の帰る家がない子供たちの帰れる場所になりたいなと思い、里親に登録しました。 登録してちょうど1年後の夏に、一時保護所にいるAちゃんが紹介されました。初め は2、3年の期間ということだったのですが、とにかく早く里親を始めたかったので、 すぐに受けました。パートを退職して、やるぞという感じでAちゃんと児童相談所で面 会しました。交流期間は短く面会が3回で、我が家に日帰りした翌週にお泊まりをして、 そのままうちの子になりました。自分でも何が起きているのかわからない慌ただしさで した。Aちゃんは来るなり、私たちを「ママ、パパ」と呼ぶような子でした。よくおし ゃべりをして、動いて、明るくてかわいらしく、初めて会う人にもあまり警戒心がなく、 気に入った人の膝にはすぐに座ってしまいました。家の中では、「抱っこして」って言 ってきたり、時々「バブバブ」って赤ちゃん返りをし、今までの暮らしがどんなだった のかなって気にしながらも、あるがままを受け入れました。すぐに夏休みだったので、 地域の夏祭りに片っ端から連れて行きました。近所の方々も浴衣を貸してくれたり、お 下がりをくださったり、とても親切にしてくれました。小学校の中にある地域子ども館 や、学校のプール指導にも参加し、ラジオ体操にも一緒に行って、毎日を過ごしました。 そのおかげで早くお友達もできて、新学期の生活がスムーズにスタートできたと思って います。実子が通っていた小学校なので誤解があっても嫌だなと思い、担任の先生にも 相談して、保護者懇親会のときに簡単な挨拶をしました。養育家庭に登録して、その縁 でAちゃんがうちの子供になって、一生懸命頑張っているということと、家族になった ばかりの私たちなので、よろしくお願いしますという挨拶でした。地域でもみんなから 見守ってもらえる子になってほしくて、知り合いに会うとこちらから挨拶して紹介する ようにしていました。 暮らし始めると毎日が発見でした。好きな食べ物は、「納豆と梅干し!」と言うので、 安心するだろうと思って食卓に出していましたが、もしかしたら今までそれだけが食事 だったのかなって、気がついてやめました。偏食、味の幅が狭いというのは、里子には 共通のことかもしれないのですが、味覚は極端で、甘いものが大好きでした。お茶は、ウーロン茶は飲めるとのことで、紅茶やほうじ茶をウーロン茶だよと言って出すと飲ん でいました。思い込みというか、食べたことがない物への警戒、抵抗感があったんだな と思いました。時間も「これフルコース?」と思うくらいの長さで、朝食でも1時間ぐ らいかかりました。6時半に起こしても登校がぎりぎりになるほどゆっくり食べていま した。歯の生えかわりで前歯が全然なく、ほかの歯もでこぼこで、かみ合わせが原因と も最初は思ったのですけれども、たくさん一遍に頬張ったり、口の中にいつまでも残っ ていたりということもあったので、飲み込みに問題があるのかなとも考えました。給食 もいつも最後になってしまって、随分苦労していたようです。口に入れる量を教え、飲 み込んだ後「あーんしてみて」と、赤ちゃんのようなところからスタートしました。こ ころの問題もあってのことだったみたいで、子供を育てるときに、見えないものを見る 目、聞こえないものを聞く耳などと言いますけれども、様子をよく見て、察してあげな ければいけないなと思いながら育てていました。歯列矯正を始め、私たちにできること は、やってあげたいと思っています。 実子たちも家を出てから来た妹という感じでしたが、家族旅行を企画すると参加して くれて、お兄ちゃんお姉ちゃんをしてくれています。家族の協力がすごく大事だなと思 っています。また、学校、学生ボランティア、イベント参加など様々な機関と連携し、 支援とつながることも大事だと思っています。 実子を育てた経験があっても、実子の子育てとは全く別もので、新しいチャレンジに なるんだということを今一番感じています。7歳まで他の環境で育ったAちゃんの抱え ている問題もあり、言葉かけ一つをとっても我が子とは違うということです。勉強会に 出たり先輩の話を聞いたりすることが大事だなと感じています。 実子がいるいないということだけでなく。実際に里親サロン等で他の家族と関わって みると、実母と交流があったり無かったりと、里親子の形はそれぞれ状況も様々で違う ことを実感できるでしょう。でも、こうでなければいけないという正解は無く、子供 の幸せを願う気持ちは一緒ですので、もっともっと、里親の輪も広めていきたいと思っ ています。 子供のいる生活は本当に楽しくて、毎朝登校する姿を見送るときとか、小さな子供の 洗濯物を干すときとか、本当に幸せだなという気分をたっぷり味わわせてもらっていま す。結婚記念日に、「きょうはパパとママの結婚記念日だよ」と話したら絵を描いてく れました。とても上手で、誕生日にも描いてくれました。とても上手で、市内の小中学 生の作品展にも選ばれたお芋掘りの絵は、家族も絶賛で、おばあちゃんが自分の部屋に 飾っています。いつか我が家も、子供たちの帰れる場所、いつでも帰っておいでと言え るような場所になれたらうれしいなと思っています。これからもたくさんの里親仲間と 支え合って、子育てしていけることを心から願っています。

 

【里母】 私たち夫婦は長い間不妊治療を続けていましたが、やっと妊娠して喜んだのもつかの 間、流産をしてしまいました。しばらくしてどんな形でもいいから子供と接することが できないかなと思い、乳児院でのボランティアに通うようになりました。とにかくかわ いくて、たくさんの元気と笑顔に囲まれ、私は救われました。そんな生活が何年か続い た頃、乳児院でRSウイルスというのがはやりまして、7カ月ぐらいの男の子が、たまた ま通りかかった私に抱っこしてもらいたくて、発熱で真っ赤な顔をしながら手を差し出 して、にこにこするのです。それを見た時に、本来の家庭であればそんな笑顔を作らな くても、お母さんがずっとそばにいてくれて、抱っこしてくれたり、甘えさせてくれた りしてくれるのに、そういうことができない、こういう子たちのそばにずっといて抱き しめてあげられる人になりたいなと。それが里親になろうと思ったきっかけでした。 その後、里親登録をして、今から2年半前、片道2時間かかる乳児院に通って、まだ 2歳になったばかりのI君に出会うことができました。結構人見知りで、初めは、先生 にべったりくっついている状態で、目も合わせてくれないし、顔を見てくれることもな いし、帰りに「ばいばい」すらもしてもらえないのです。少しずつ慣れてきて、何週間 かしたら、先生が一回抜けて、二人きりで遊ぶ時間を作ってくれるようになったんです ね。そうしたら、ちょっとずつ笑顔を見せてくれて、お話もしてくれて、一緒に遊んで くれてというふうになって、もう帰りは嬉しくて、2時間の道のりも全然気にならない くらい。「ああ、また早く会いたいな」という感じで交流を進めていきました。 ただ、主人との交流はすごく手こずりました。乳児院には男性がほとんどいないので、 男の人に免疫が全然なくて、警戒心が尋常ではなかったのです。なので、主人と2人で 行く時は、まず私が一緒に遊んで、I君のテンションをマックスに上げた状態にして、 そこに主人がおもちゃを大量に持って、おもちゃで釣る感じで登場するという作戦で、 どうにかちょっとずつ警戒心を取り除いて、距離を縮めていくことができました。それ でも主人がI君の声を聞くまでは1カ月以上かかり、しかも最初の言葉が、消え入りそ うなウィスパーボイスで「アンパンマン」と言っただけだったのです。 家に来てからもしばらくは、お風呂に入りたくないとか、乳児院で着ていた服以外の ものは絶対着ないとか、靴も履かないとか、見たことないものは食べないとか、大泣き する騒がしい日々が続きました。特にお風呂は、乳児院では大人が洋服を着た状態で子 供たちを流れ作業で入浴させていたので、大人の特に男の人の裸を見たことがなかった ため、主人とお風呂に入るのには時間がかかりました。今はお風呂が大好きで主人と銭 湯に行くのを楽しんでいます。 洋服も前の日に「明日これとこれを着てくれる?」と言って、本人が納得すると着て くれるし、洋服とか靴とかを一緒に買いに行って選ばせると、それはすんなり自分のも のだと抵抗なく受け入れてくれたりするので、この子はちゃんと説明したら理解できて、それがないと納得しないまま受け入れることはできないんだなというのがわかり、それ からもどんどん、2歳だろうが、わかる限りで説明をしていって、そうしたら食べ物も 好き嫌いもなく本当によく食べて、人見知りもしなくなり、寝起きも寝入りもすごくよ くなって、本当に手がかからない子になった…と思っていたら、そんなに甘い訳がなく て、ちょうどイヤイヤ期と試し行動の合わせ技で、少しでも気にくわないことがあると、 物は投げる、全力で泣き叫ぶ。それも何か超音波みたいな音で、耳をつんざくというの はこういう音なんだろうなというぐらい、壁にひびが入るんじゃないか、鼓膜が破れる んじゃないかと何回も思ったぐらいで、本当にすごい声で、しかもなぜか「お母さん嫌 だ!」と言うのを必ず末尾につけるので、これは絶対いつか通報されるなと思いながら、 今のところ通報されていないので大丈夫だったみたいなんですけれども。 そんなのが毎日続いていって、その時にボランティアで行かせていただいていた乳児 院の先生に相談したり、私の母親が近くに住んでいるので、そこで協力してもらったり、 姉家族とかにも協力してもらって、みんなからの愛情をたくさん受けて、入園前にはど うにかちょっと落ち着いてくれました。当時2年生だった姉の息子も、一人っ子でわが ままな子だったのですが、I君が来てからすごくお兄ちゃんになって、本当に兄弟みた いになって、周りがみんな、そういう意味では成長できたというか。 今、幼稚園に行っているのですが、すごく人気者で、やさしいからと、しょっちゅう ラブレターをもらって帰ってきます。みんながI君スマイルと言うぐらい、本当にいつ もにこにこしていて、きらきらした目で「お母さん、大好きだよ」と毎日言ってくれま すし、この間も、ちょっと私が具合が悪くて横になっていたら、ずっと「お母さん大丈 夫?大丈夫?」と言いながら頭をなで続けてくれました。 この制度があって本当によかったなと思っています。血は関係ないんだなと。自分が 産んだんじゃないかと思うぐらい、自分の中では本当に愛しいと思っています。この制 度がもっと多くの人に広まればいいなと思っています。 実はこの子の前にも一回、6歳になる1週間ぐらい前の子を委託したことがありまし て、すごく展開が早かったのですが、正直言ってすごく難しかったです。その子自体も 人間形成されているし、ちょっとグレーゾーンのところがいろいろあったので、私なり にも一生懸命頑張ったんですけど、周りが「もうやめときな」と言うぐらいげっそりし てしまい、それでも頑張ろうと思ったら、今度は家族も「ちょっと、もうやめて。それ 以上続けるなら、私たちはもう面倒見ないよ」というふうにまでなってしまって、結局、 これ以上続けることは、多分この子のためにも、私たちの周りみんなにもよくないなと いうので、申し訳ないのですがとお断りして、引き上げという形になりました。もし引 き受けて、合わないなとか無理だなと思って、無理して続ける必要は多分ないと思うん です。そこで「ごめんなさい」と言うのも里親としては必要な選択なのではないかと。 ただ、その後こうやってI君と出会えたりするので、一回やってだめだったからもうだ めだというのではなくて、前向きに頑張ってやっていただけたらいいかなと思います。

 

【里母】 私は、3年前の2014年10月ごろに養育家庭の里親として登録させていただきました。 私たち夫婦は、6年前の夏、当時3歳だった息子を事故で亡くしました。ずっと、つら い毎日でしたが、息子の死から2年以上過ぎたころ、私たち夫婦の中で、「もう一度子 育てをしたい」と前向きに思うようになり、養育里親になるということを決めました。 初めてお子さんをお預かりしたのは、登録をして3、4カ月が過ぎたころで、一時保護 で、生後2カ月の赤ちゃんを1カ月ほどお預かりしました。まだ首も座っていない赤ち ゃんのお世話は久しぶりでしたが、穏やかなお子さんで、ミルクを飲むとよく寝てくれ ました。主人と一緒に協力したり、周りの方に助けていただきながら、無事に1カ月お 預かりできました。この経験を通して、里親としての自信が少しついて、これからも続 けていきたいと思うようになりました。 間もなくして、今度は長期委託の予定で1歳半のAちゃんのお話をいただきました。 初めてAちゃんにお会いしたとき、とってもかわいい子だと思いました。Aちゃんと2、 3カ月ぐらい交流をして、1歳10カ月のときに我が家への委託措置が決定いたしました。 最初の頃、食事に関しては、かなり苦労しました。また、Aちゃんは2歳前後のイヤイ ヤ期で、こちらは年齢的にも更年期というのもあって、時にはいらいらしてしまうこと もありましたが、一緒に公園で遊んだり、買い物に行ったり、絵本を読んだり、御飯を 食べて、お風呂に入り、一緒に寝てという、ごくごく普通の御家庭と一緒の生活を、日々 過ごしながら、私たち夫婦とAちゃんの信頼関係を築いていきました。 信頼関係もできてきたと思えるようになったのは、我が家に来て半年以上たったころ だと思います。いろいろなものをよく食べてくれるようになり、自分の思いも伝えてく れ、伸び伸びと過ごすようになりました。最初のころよりも表情が豊かになって、かわ いい笑顔もたくさん出してくれるようになりました。Aちゃんとの生活が安定してきて、 我が家に来てちょうど1年たったころ、Aちゃんが近く家庭復帰をするという話が出て いることを知らされました。それを聞いた日は、悲しさから、涙がとまりませんでした。 その後、Aちゃんと親戚の方との交流が児童相談所で週に1回のペースから始まりま した。2回目の交流が終わった日、絵本を買いに本屋さんへ行きました。本屋に行くと Aちゃんが、売っていたおもちゃを手にし、「これ買う!」と言いながら急に大泣きし、 床に寝転がって暴れだしました。そんなことは初めてでした。大泣きするAちゃんを抱 きかかえ、何も買わずに急いでお店から出たのですが、出た瞬間、私自身反省しました。 Aちゃんがこれ買うと言ったときに、何で、それ買おうねと言って、Aちゃんの気持ち に寄り添わなかったんだろうと。きっとAちゃんは急に始まった親戚の方との交流が不 安だったと思います。それから、大泣きするAちゃんに大好きなおいしいアイス食べに 行こうと言い、気持ちを切り替えるようにしました。私はそれ以降、交流の後は、頑張 ったねと、おいしいアイスを食べに行くことにしました。 私たち夫婦は、Aちゃんの家庭復帰の話に気持ちがついていかずに、正直、渋々協力 しているというような状態でしたが、交流が始まって1カ月以上がたち、100%ではない にせよ、Aちゃんの家庭復帰を応援するという思いになっていました。そんな風に気持 ちを切りかえられたのは、やっぱりAちゃんの優しさを感じていたからだと思います。 私や夫が息子の仏壇にお線香をあげていると、Aちゃんが来て、一緒に手を合わせて くれたり、写真の息子にも話しかけてくれたりするのです。本当の家族がいるように接 してくれたAちゃんにはとても感謝しています。そんなAちゃんのように、私たちもA ちゃんの御家族を大切に思い、そしてその御家族のところに無事に戻れるよう応援しな ければと思いました。交流は、年が明け、少しずつお泊まり交流を繰り返していきなが ら、2月の下旬に家庭復帰の日を迎えました。最後の日は、職員の皆さんと私たち夫婦 とで出発するAちゃんを見送りました。車に乗ったAちゃんに、元気でねと言って抱き つこうとしたら、嫌がられてしまいました。みんなの前だから照れていたのか、いつも のあっさりした、Aちゃんらしく出発していったのではないかなと思っています。 私は、季節の行事やお誕生日などのイベントを家族と一緒に楽しく過ごすことは、子 供にとって大切なことだと思っています。Aちゃんともたくさん楽しく過ごしました。 そう遠くない将来、Aちゃんは多分、私たち夫婦のことは忘れてしまうと思います。だ けど、この先、お誕生日などの記念日とか、季節の行事が来るたびにその時間が楽しい 時間であるんだということを思っていてくれたらうれしいですし、Aちゃんが将来結婚 して、自分の家族を持ったときにそういった時間を楽しく過ごしてくれたらうれしいな と思っています。 これからも里親を続けていこうと思える一番の理由は、大変なことも多いんですが、 お子さんと一緒に過ごせる生活は楽しいからです。笑っていられる時間もたくさんにな ります。血のつながらないお子さんでも、日々一緒に過ごしていくと、実の子と同じよ うに過ごしていけるお子さんがいるということをAちゃんが教えてくれました。どのお 子さんでもそう思えたかといったら、正直そうではないと思うんです。Aちゃんが家庭 に戻って半年以上たちますが、今思うことは、お別れはつらいし、悲しかったですが、 Aちゃんが実家庭に戻れたことを本当によかったと思っています。お預かりした1年5 カ月はあっという間でしたが、Aちゃんの成長に少しの期間でも携われたことがうれし かったです。私は息子を亡くしたころ、この先、どう生きていったらいいのか、生きて いけるのか、わからない状態でした。でも、今こうして里子さんたちと御縁をいただい て、里親として生活できること、感謝したいです。里親制度は、子供の幸せのためにあ りますが、この制度があったことで、私たち夫婦が里子さんたちから、たくさんの笑顔 ある生活をいただいています。そして、息子が生まれてくれなかったら、私は母になれ ませんでしたし、里親になることもできませんでした。里親になれたことを大切に、こ れからも、家族みんなで頑張っていきたいと思います。

 

【元里子】 私が養育家庭で生活するようになったのは、小学校6年生の1月、父が病死したこと がきっかけでした。母も父が亡くなる前の年に亡くなっていたので、父が亡くなった後、 私は一時保護所に預けられました。一時保護所からは学校に通うことができないので、 今までいた小学校で卒業できるようにと、本来なら設けられる交流期間を設ける機会も ほとんどないまま今の里親家庭で生活するようになりました。 最初は小学校に通えて楽しい気持ちしかなかったのですが、それまで生活していた環 境とは全く違ったので、少しずつ苦しいな、大変だなと思うことが増えていきました。 今まで家に誰も大人がいないというのが当たり前の生活で小学校低学年のころから夜 遅くまで一人でテレビを見て、朝起きて学校にいくという習慣もほとんどなく、給食が 食べたくて学校に行っていました。友達と遊びに行っても夜7時過ぎまで遊んでいたり、 友達の家で御飯を食べたりという生活でした。しかし、里親家庭に入ると、里母が家に いて毎食きちんとご飯を用意してくれる家庭だったので、その時点で今まで自分がいた 環境とは全く違いました。朝きちんと起きて学校に行き、夕方帰ってきて、きちんと決 まった時間に夜御飯を食べなければいけないようになりました。今まで自由にできてい たことができないということがすごく窮屈で、少しずつそういったことが自分にとって ストレスになっていきました。夕飯が終わって、テレビを見ていると「お風呂入りなさ い」とか「宿題やったの、勉強しなさい」と言われます。友達と遊びに行くときも「誰 と遊びに行くの」「何時に帰ってくるの」「どこ行くの」と聞かれます。そのときの私 は、どうせ他人なのに、何でそんなことまでいちいち言われなきゃいけないだろうと思 っていました。 大人になった今なら、当時里親さんの言っていたことを理解できます。しかし当時は、 自分がそれまでいた環境しか判断基準がないので、里親さんの言っていることは自分の 思うように私を動かしたいだけ、私のことが嫌だから文句言いたいだけぐらいにしか思 えませんでした。 最初は小学校を卒業するまでの短期という約束だったのですが、小学校を卒業した後 も一緒にいた友達と離れたくないという希望があったので、自立まで里親家庭で暮らす ようになりました。その後も何度もぶつかっては嫌だ、嫌だと思っていました。そんな 私を見て、里親さんが「児童相談所に行って、自分が思っていることを話してきなさい」 と言って、何度も児童福祉司さんと話をする機会をつくってくれました。また同世代の 里子と交流ができるような場に連れて行ってくれたりして、同じように実の親と暮らし ていない、社会的養護を受けている子たちを目の当たりにする機会が増えました。少し ずついろんな人に話すことによって、何となく自分がやりたいこと、里親さんがやって ほしいこと、全部はではなくても、少しずつお互いすり合わせていくことはできるのか なと思うようになりました。今までの生活は普通とはちょっと違うのだなというのが何 13 私の家族 ~里親家庭だったから経験できたとなくわかるようになってきて、すぐに自分が言っていることが間違っていると認める ことはできないけれども、里親さんが言っていることがおかしいという感覚ではなくて、 自分が思っていたのが普通とはちょっと違うんだなというのを受け入れるようにはなっ ていきました。 中学校3年生になって高校受験を控えて、里親さんと話す機会もすごく多くなって、 私よりもよっぽど真剣に少しでもいい環境をと考えてくれて、私のことをこんなに真剣 に考えてくれる人なのだなと感じ、そこから少しずつ信頼できるようになり、話も受け 入れられるようになりました。 無事に高校入学した後ももともと勉強する習慣がないので、学校に提出物が出ていま せんなどと、何度も里親さんには迷惑をかけましたが、高校で出会った友達に本当に恵 まれて、高校生活はとても充実していました。里親家庭で生活しているということを、 周りの友達に、「この子、ちょっとかわいそうな子なのかな…」と思われることなく生 活できたことがすごく大きかったです。学年が上がるにつれて、自立とか、高校3年生 で措置解除というのがちょっとずつ何となくプレッシャーになっていました。しかし、 里親さんが「自立した後も近くに住んでいつでもおいで」と言ってくれる人だったので、 突然投げ出されて一人になるという環境ではなく、それはすごくありがたかったと思っ ています。 高校卒業後は大学の2部に進学をして、里親の家の徒歩1分ぐらいのアパートに住ん で、昼間に働きながら学校に通っていましたが、日中働きながら夜に学校に行くという のはそんなに簡単なことではなくて、仕事をしている方がお金も稼げますし、自分がや りたいことができるなと思うようになりました。その結果、大学は3年生の前期で中退 しました。ただ、私の行っていた高校がほとんど全員大学に進学するような学校に行っ ていたので、その時に大学に行かずに働くというのを決めていたら、きっと何で行かな かったのだろうと後々後悔していたと思うので、大学に入学できたということは私にと ってはすごくありがたい経験ができたと今でも思っています。 自立して10年ぐらい経ち、振り返ってみると、うまくいっていない時でも今の里親 さんは家族で出かけたりとか、旅行に連れていってくれたりとか、里親家庭だったから 経験できたなと思うことが本当にすごく多いです。里親に委託される前の交流期間がほ ぼなく、生活スタイルの変化や、実親への思いから、里親家庭に入って数年は辛いと感 じました。しかし実の父が生きていたらきっと私は私立の高校に進学することもなかっ たですし、大学に入るということもなかったと思います。私は里親家庭にいたから、高 校中退せずに、10代の私の現実味のない希望を里父母が一緒に考えて実現できるもの に変えてくれたおかげで、今ここに来られたと思います。今では実親と暮らしていた期 間よりも里親家庭に入ってからの期間のほうが長くなったので、私にとってはとっくに 家族だったのですけれども、その後養子縁組をしたことによって法的につながりができ て、社会的にも家族になれたのかなと思っています。

 

全文はこちら

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kodomo/satooya/seido/hotfamily/taikenhappyou/29happyousyuu-html.files/29taikenhappyou.pdf