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笑顔と子どもをの竹内まさおりです^^

更新が遅くなってしまい大変申し訳ございません。

このお盆休みには、日本青年会議所主催の硫黄島訪島事業の選考に受かることができ、東京都小笠原村の硫黄島に行って参りました。
記憶が濃いうち、手記を残したいと思います。

硫黄島とは、東京都とマリアナ諸島との中間地点にある、約22k㎡と武蔵野市のちょうど倍の大きさで、2万人もの日本軍が、本土攻撃を意図していた米軍から死守しようと激戦が繰り広げられた島となります。



日本軍死傷者数:21,149人
米軍の死傷者数:28,686人

(上陸前の空爆、そして、徹底的な戦砲射撃によって草木もなくなってしまった島)

現在、リオオリンピックで盛り上がっておりますが、実は、この戦いには、バルセロナ五輪の馬術で金メダルを取った西竹一選手と、水泳銀メダリストの河石達吾選手も出兵し、戦死されたという非常に悲しい歴史のある島です。


(西選手)


(c130輸送機)

また残念ながら、まだ一般民間人による自由な上陸は許されておらず、遺族会や遺骨収集団、神社の方々と一緒に入間基地より輸送機にて出発。

基地の写真は撮影が禁止されておりましたのでございませんが、想像と異なり、緑豊かな非常に美しい島でした。


(島では、海上自衛隊のバスで移動)

しかし、まだ約1万3000柱もの遺骨が眠っております。



トーチカの残骸や破壊された機関銃、



山に残された砲台や弾もそのままでありました。

また、ジャングル内には塹壕や洞穴も多数残っており、


豪の中は、地熱により文字通り「サウナ」のようでありました。



このもっとも広いのが医務科壕。
当時のやかんや桶などのそのまま残っておりました。



また、ところどころに、換気扇として掘られた竪穴もあり、やたらにジャングルを歩くと危険なんだなと感じました。

水もない中、暑い穴の中で、1カ月以上も戦うのはどれだけ辛かったことだか、想像できるでしょうか。

また、島の一角には資料室がございました。





とっくりかなと思ったそれは、なんと陶器製の手りゅう弾。



そして、こちらが近年発見されたという発電機。これで、遠く離れた本土に電報を打っていたとのことです。

どんな気持ちで最後の電文を送ったのでしょうか。
考えるだけで、つくづく胸が痛みます。

遺族の方がおっしゃられておりましたが、位が高い人の戦死についてはしっかりと記録があるそうですが、そうでない兵士の戦没日は全て、玉砕日にされてしまうそうです。だから、3月17日になくなった人が多いんだと。


当時のピューリッツァー賞を受賞。
すり鉢山の頂上です。カメラマンに言われ、取り直されたと言われております。
しかしその翌日、日の丸に替えられていたとのことで、まだ塹壕に日本軍が生きていると知った米軍は、片っ端から手りゅう弾や火炎放射器で攻撃し、それからというものは、もう二度と日の丸に替えられることはなかったそうです。

そして、この島に米軍の飛行場が作られてから、本土空爆が本格化致しました。
特に、ゼロ戦のエンジンを作っていた中島飛行機の工場があったここ武蔵野は、空襲が激しかったと聞きます。


そして、これが、旗を建てられた場所からの眺めです。
こんなきれいな場所で、日米合わせ3万人近くもの人がなくなってしまったなんて想像がつきますでしょうか。

決して忘れてはならない歴史があるだなと、実際に戦跡を見て改めて感じました。


(47都道府県の石を使用されている「硫黄島戦没者顕彰碑」岸信介書の前にて)

日本の領土でありながら立ち入りが制限されている島。
戦争を美化したり、風化させないためにも私は、上陸規制をなくし、一人でも多くの人が直接、戦争の爪痕を目にし、また、戦没者の方々を弔問できるようにすべきだと考えます。

そして、まだ1万3,000柱もの遺骨が発見されず本土に戻られていないという状況を、何とかしたいとなと感じました。

それに関しては、現在政府も動いているそうです。
今度は、飛行機の滑走路の下を調査していくとのことであります。



このような貴重な機会を頂いた、青年会議所に感謝するとともに、この東京都硫黄島のことを少しでも身近にしていければ幸いです。