2022年、僕の美容師としての原点と感謝のブログ。 | 渡井タケトの本音ブログ

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【Watai】自由が丘 代表 渡井タケトのブログ。
まっすぐ王道で生きる美容師。
日本一目指してます。
正直者はバカを見ますが、最後は笑うと信じてます。

こんにちは。


自由が丘の美容室Watai代表取締役の渡井タケトです。


今回は少し美容と離れた内容となります。
本音ブログという事で、少しプライベートな話を執筆させて頂きます。



僕がなぜ美容師になろうと思ったのか。



それは美容が総合芸術であり、一生涯ゴールがなく、積み上げがあればある程磨かれる職業だからです。


しかし、本当の理由は父の影響が90%でした。
小さい頃からとにかく父さんがカッコよかったからです。






自分の父が静岡の田舎ではありますが、それなりに名の通った繁盛店のプレイングマネージャーであり、私が小さい頃から美容ディーラーの方や業界関係者に囲まれて歳を重ねていました。


しかしその反面、周りから『二代目』『後継』などと言われ、とてつもないコンプレックスだったことも事実です。


正直、僕は僕だし、親は関係ないんだけど。
と心の奥底では小さい頃から思っていました。


私は29歳までは自由に生きてきました。


小さい頃からエレクトーン、サッカー、油絵、乗馬、スノーボード、スキー、DJ、ギター、英語などを学ばせて頂き、高校ではカナダへ一年語学留学、美容学校からはずっと東京。


教育熱心な両親のおかげで様々な経験をさせて貰いました。


社会人になって20歳から29歳まで勤めた会社では、恥ずかしながら十二指腸潰瘍やら自分の弱さから来る病気のせいで三回程入院しました。


父さんもずっと胃潰瘍に悩まされていたのは、親子してストレスを抱え込むのが下手なんだと思います。


入院する度に父から『無理するな。すぐに静岡へ帰って来い』と言われたので、意地でも東京で結果出してやると自分を奮い立たせ、必死に努力し、それなりの地位まで上がりました。


今思い返せば
『ただ父さんに認めてもらいたかった』

それだけで36年の人生を駆け抜けていました。


どんな人に認められても、どんな人に褒められても母から時々間接的に言われる『父さんはアンタの事、凄いって言ってたよ』の言葉が何よりも生きている実感の湧く嬉しい言葉でした。







どうしても一度だけ父と仕事がしたくて、自分の小さい頃からの夢であったニューヨーク在住で美容師をするというのを諦めて、4年間静岡へ戻る事を選択しました。


しかし、一緒に働ければ勿論ケンカが多々。


日本一を目指す僕のモチベーションと、父の地域ナンバーワンというベクトルはなかなか合いませんでしたが、社員を家族として大切にするという店は共通していました。



無理、無駄、ムラの嫌いな父の性格。

無茶、無謀、無理を繰り返した僕の性格。


一生敵わないのは父だなと確信したのも、4年間で学べた事の一つです。


せっかく息子が帰ってきて、静岡のサロンも安定したのも束の間でしたが、私もそれなりに部下達を育てたので、自由が丘に自分のブランドサロンを出店したい意向を伝えた時の父の気持ちは本当に複雑だったと思います。


出店時の資金調達、人事に関しては自分の力を試したかった事もあり、父には殆ど迷惑を掛けずに出店しました。

私は自由が丘のWataiで、無理してでも早期に結果を出す必要があったので
1年半で、はじめのサロンを無くして今の規模にしました。


『日本一の美容室を作る』
これが僕が父に切った最後の啖呵だからです。



とにかく父さんに認めてもらいたい。
そして何より早く父さんに安心してもらいたい。
いつの間にか心境も変化していました。


というよりも自分の要らないプライドがなくなり『父さんを世界一尊敬してる』




と言える様になっていましたが、これもまた直接伝えるのは恥ずかしいもので、本人には一度も伝える事が出来なかったのが、1番の悔いです。


わたしが世界一尊敬していて、世界一カッコいい父さんは2021年12月13日に心筋梗塞の為、急死しました。


なんで私の父が急死?

なんで62歳で死ななきゃいけないの?
 

これから私が会社も大きくして、母と2人で旅行三昧、ゴルフ三昧にするんでしょ?

俺、まだ親孝行を出来てないんだけど。

面と向かって愛してるって言えなかった。

もっと色々教えて欲しかった。



色々な感情が四十九日まではありました。

世間様にこんな内容の事を伝えるべきかも悩みました。

今執筆しているのは2/18。

父が生きていれば今日が誕生日でした。


ろくに親孝行を出来なかった私に出来る最後の親孝行は、今の気持ちを文章として残す事だと思ったからです。


多少重い内容ですが、このブログを読んで下さった方に父親がいるならば、すぐに親孝行をして下さい。


人の命は儚いです。


当たり前に支えてくれている人が、明日亡くなるかもしれない。


行き急げという事ではなく、とにかく今この瞬間が当たり前でなく、奇跡が積み重なって生きている事を忘れて欲しくないです。






最後にもう少しだけ父の話をさせて下さい。


父は30歳で脱サラをして、私が5歳、弟が1歳の状況でしたが、テレビでベトナムの貧困な子達が同じ髪型をしているのを観て、『みんな同じ髪型で可愛そうだ。俺が可愛くする』と言って安心安定の大手企業を退社し、急に無収入で美容学校へ入りました。


父が31歳で美容室で働き始めた時は、同級生は全員10歳以上年下ばかり。


当時の美容業界は絶賛オラオラ期ですので、かなり辛い思いをしていたと思います。


そんな父が35歳で独立をして出したのが、美容室トップスタイル


デザイナーもカーペンターも全てニュージーランドの方々にお願いしていました。


やる事が本当に危ない橋を叩かずに真っ直ぐ進む遺伝子は渡井の血筋なんだと思います。


今でも祖父と父がニュージーランド人の方々と拙い英語でコミュニケーションをとりながら、共に木材を運び組み立て、父の親友も一緒になってペンキを塗っている姿を覚えています。


物も人も義理も本当に大切にする人でした。


それからいつの間にか立ち上げの社員は25年の中でいなくなり、今ではその当時小学生だった私の世代が幹部になって会社を支えています。


様々な事があった25年間、人に悩まされ、人に支えられた25年間。


静岡県東部の美容関係者で知らない人のいないサロンにまで育て上げました。


ブログを書きながら気づきましたが、父が会社を作った年齢と、私が株式会社Watai Tokyoに法人成りしたのは同じ年齢でした。


スタートラインは同じ


ちょっと早いお別れでしたが、その分私が強く生きようと思います。


父が大切にした物を守り、私が大切にしている物を進化させ、日本一の美容室作りをして25年でまた次の世代につなげる様にします。


父さんの夢は『100年企業にする』


私はその中継ぎをする人生として、これから銀座、青山、もう一つ自由が丘にサロンを出します。


『みんな仲良く』


父がよく言っていた言葉を令和の子たちが理解できる様に進化させていきたいと思います。


そして自分の人生、命を懸けて美容師という文化が低迷しているので、トップサロンとして成長させ続ける事をここに誓います。


長いブログを最後までお読み頂きまして、有難う御座いました。