教員という仕事は、
自分を削ってくる。

確認。
責任。
人間関係。
失敗。
正解のない毎日。

気づけば、
心も体もすり減っている。

それは、
どこか陸上人生に似ている。

もっと速く。
もっと粘れ。
もっと我慢しろ。
もっとやれる。

限界ギリギリまで、
自分を削る。

でも、
不思議なことに、
人はそこで終わることもあれば、
そこから強くなることもある。

紙一重。

追い込みすぎれば、
壊れる。

でも、
苦しさの中で、

「自分は何を大切にしたいのか」
「どういう人間でいたいのか」

を見失わなかった人は、
ただ強いだけじゃない、
“深い人”になっていく。

現役時代、
私は何度も、
「もう無理だ」
と思った。

箱根。
ケガ。
故障。
結果へのプレッシャー。

それでも、
その苦しさを通ったからこそ、
見える景色もあった。

今、
教員としても、
似たものを感じる。

苦しい。
理不尽もある。
削られる。

でも、
ここで、

「自分も同じように人を削る側になるのか」

それとも、

「苦しさを知ったからこそ、
人を潰さない強さを持つのか」

そこが分かれ道なのかもしれない。

削られること自体が、
悪ではない。

問題は、
削られた先に、

“何を残すか”

なのだと思う。

私は、
ここを乗り切りたい。





マラソンは苦しい。
でも、もっと苦しいものがある。

それは――
“自分を信じられなくなること”。

強く言われる。
断定される。
まだ確認できていないのに、
まるで全部こちらが悪いように話が進む。

最初は、
「いや、違う」
と思っている。

でも、人は何度も強く言われ続けると、
だんだんこうなる。

「……自分が悪いのかも」

本当はやっていた。
本当は考えていた。
本当は必死だった。

でも、

「自分の記憶が違う?」
「自分の認識がおかしい?」
「自分って信用できない人間なのか?」

と、“出来事”ではなく、
“自分そのもの”を疑い始める。

これが、本当に苦しい。

なぜなら、
人は“自己信頼”を失うと、
挑戦できなくなるから。

顔色を見る。
怒られない動きを探す。
正解ばかり求める。
確認ばかりする。

そして、
「自分で考えて動く」
ができなくなっていく。

怖いのは、
言っている側に悪気がないことも多いこと。

「指導しているだけ」
「確認しているだけ」
「正しいことを言っているだけ」

確かに、
言っている内容は正しいのかもしれない。

でも、
“正しさ”だけで人は育たない。

伝え方ひとつで、
人の心は静かに削れていく。

私は、
こういう苦しさを、
生徒には味わわせたくない。

もちろん、
指導は必要。
注意も必要。

でも、

「お前の感覚は信用できない」

を植え付ける関わり方だけは、
本当に危ないと思う。

もしかしたら今、

「自分がおかしいのかな」
「自分を信じられない」

そんなふうに苦しんでいる人が、
どこかにいるかもしれない。

だからこそ、
まず大人が考えたい。

“正しさ”を伝える前に、

「この関わり方は、
相手の自己信頼を壊していないか?」

を。




体育のスポーツテスト。
女子中3、最後の種目1000m走。
思ったより早く終わって、
少し時間が余った。

その時、
ある女の子が言った。

「先生、1000m走ってください。」

私は笑って返した。
「こんなおっちゃんが必死で走っても、おもんないやろ(笑)」

そう言って流した。

でも今になって思う。
——走ればよかった。

このクラスには、
道徳の授業で、
自分の過去を少し話した。

箱根駅伝。
実業団。
走ってきた人生。

だからあの子は、
ただ“先生が走る”を見たかったんじゃない。

“走って生きてきた人が、本気で走る姿”
を見たかったんだと思う。

しかも私は、
まだ1000mなら3分前半で走れる。
なのに、
どこかで照れた。

「大人気ないかな」
「別に見せるほどでもないか」
「疲れるしな」

そうやって、
本気になることから少し逃げた。

でも、
生徒って不思議なくらい見てる。
速いか遅いかじゃない。

“大人が本気になる瞬間”
を見てる。

だから、
あの時走っていたら、
タイム以上に、
何か伝わった気がする。

人生って、
「やって後悔」より、
「やれたのに、やらなかった後悔」
の方が、
あとから静かに残る。

でも、
この後悔が残ってるってことは、
まだ自分の中に、
“走りたい火”
がまだ残ってるってことなんだと思う。

次、
もし誰かに言われたら——
今度は、
ちゃんと走ろうと思う。





「勝たせたい」
「全国へ行かせたい」
「メダルを取らせたい」

もちろん、それも大事。

でも——
ジュニアスポーツの本当の目的って、
“オリンピック選手を作ること”だけじゃない。

スポーツを本気で頑張った子が、
大人になった時に、

・粘れる
・感謝できる
・仲間と協力できる
・挑戦できる
・自分で考えられる

そんな「生きる力」を持っていること。

こっちの方が、実はもっと大事。


筋力、持久力、瞬発力。

これらは「競技力」でもあるけど、
人生を生きる“体力”でもある。

さらにスポーツは、

・忍耐力
・判断力
・思考力
・継続力
・感謝する力

まで鍛えてくれる。

つまりスポーツって、
“人間力育成装置”なんです。


でも最近、
大人が結果を急ぎすぎることがある。

怒鳴る。
追い込む。
ミスを責める。

すると子どもは、
「挑戦」ではなく
「怒られない行動」を始める。

これ、めちゃくちゃ怖い。

本来スポーツは、
ワクワクしながら試行錯誤するものなのに、

いつの間にか
“減点されないゲーム”
になってしまう。


女子バレーの 大山加奈 さんも、
子どもの頃の暴言指導が
今でも夢に出てくると言っていた。

体は大人になっても、
心は覚えている。

だから指導者は、
「勝たせる力」だけじゃなく、
「傷つけない力」も必要なんだと思う。


一方で、
伸びていく選手たちの共通点は面白い。

錦織圭
宮里藍
石川遼

みんな最初から
「プロにするぞ!」
で育てられていない。

野球もやる。
ピアノもやる。
遊ぶ。
家族で笑う。

その中で、
「これ好き!」
が見つかった。

だから強い。

“やらされてる人”は、
苦しくなると止まる。

“好きでやってる人”は、
苦しくても工夫し始める。


あと、
成長期に無理させすぎる問題。

これ、本当に怖い。

同じ中1でも、
身長150cmの子と180cmの子がいる。

なのに、
同じ練習をさせる。

そりゃ壊れる。

疲労骨折。
シンスプリント。
オーバートレーニング。

「全国大会に出したい」
という大人の夢が、
子どもの未来を削ってしまうこともある。

だから本当は、
“学年”じゃなく
“身体の発達”を見ないといけない。


最近の
セイコーゴールデングランプリ の
「ドリームレーン」はすごくいい。

子どもたちが、
トップ選手と同じ舞台を体験できる。

でも、
順位だけを競わせるわけじゃない。

「憧れ」
「夢」
「ワクワク」

を育てている。

これが本来のスポーツ。


才能って、
最初からあるものじゃない。

「好き」
「夢中」
「工夫」
「継続」
「成長」

この流れの中で育っていく。

だから指導者に必要なのは、
才能を“見抜く力”より、

才能が育つ空気を作る力。

怒鳴るより、
ワクワクを作れる大人。

それが、
本当に強い指導者なんだと思う。





昔の私は、
「もっと我慢しろ」
「もっと追い込め」
「苦しいほど強くなる」

と思っていました。

実際、走っている時もそうでした。
限界まで追い込む。
脚が壊れそうでもやる。
呼吸が苦しくてもやる。

すると、一瞬は強くなる。

でも——
長くは続かない。
ケガする。
動かなくなる。
心まで折れる。

そこで出てくるのが、
この“ギリギリ理論”。

ポイントはシンプル。

「不快ギリギリ」でやる。

キツい。
でも壊れない。
頑張ってる。
でも無理しすぎない。
この境界線を探し続ける。

たとえばストレッチ。

昔の準備運動って、
「痛いほど伸ばせ!」
みたいなのが多かった。

でも実は、
急に引っ張ると筋肉は防御反応で固くなる。
だから逆効果になることもある。

ヨガは逆。
「ちょっと痛いかな?」
の少し手前で止める。

すると体が安心して、
少しずつ柔らかくなる。

ランニングも同じ。
「死ぬほどキツい」
ではなく、
「ちょっとキツい。でもいける」
このゾーンで積み重ねる。

すると、
前まで苦しかったペースが、
普通になっていく。

これ、
人生も同じだと思う。

人は、
破滅ラインを越えると壊れる。
でも、
快適ゾーンだけにいると変わらない。

だから必要なのは、
“不快ギリギリ”。
・ちょっと怖い挑戦
・ちょっと緊張する発表
・ちょっと嫌な人間関係への一歩
・ちょっと逃げたくなる練習
この「ちょっと」の積み重ねが、
人を強くする。

「痛み=成長」
ではない。

正しくは、
「ギリギリを丁寧に越え続けること=成長」

無理やり壁をぶち壊すと、
自分も壊れる。
でも、
ギリギリを丁寧に押し広げると、
世界が広がっていく。

体は、
ちゃんと知ってる。
「今日はそこまでだ」
「今日はもう少しいける」

だから、
数字だけじゃなく、
体の声も聞け。

それが、
長く強くなる人の共通点。





「彼女が欲しいんです。」

この願い方、実は危ない。
なぜか。

“彼女がいない自分”
を前提にしているから。

だから現実は、
「欲しい…」
「まだ来ない…」
「なんで俺だけ…」
を強化し続ける。

これ、走りも同じ。

「速く走りたい」

この言葉も、
実は“今の自分は遅い”
を握りしめている。

だから、
焦る。
比べる。
追い込む。
壊れる。

昔の自分もそうだった。

「もっと速く」
「もっと我慢」
「もっと追い込め」

ブラックエンジン全開。

でも、ある時から変わった。

“速く走れる人なら、
今日どう走るか?”

を考えるようになった。

すると、
無理やり未来を掴みに行く感じではなく、
“そういう人として今日を生きる”
感覚になっていった。

箱根を走る人は、
「箱根出たいです!」だけでは終わらない。

箱根を走る人の生活をする。
箱根を走る人の姿勢になる。
箱根を走る人の空気をまとう。

だから近づく。

恋愛も同じ。

彼女を探す前に、
「この人といると安心する」
って空気を作れる人になる。

すると、
現実が後から変わってくる。

願いって、
未来への注文じゃない。

“今、どの自分で生きるか”

なのかもしれない。





10000mをしっかり走るためには、スピードだけでは足りない。土台となる有酸素能力が必要になる。

たとえば、30キロ走を5キロ17分30秒ペースで走り切れるようになるには、いきなり30キロを走れるわけではない。

まず15キロ、20キロ、25キロと距離を積み上げていく必要がある。

その過程で、心肺機能、脚づくり、ペース感覚、後半粘る力が自然と鍛えられていく。

つまり、30キロ走を走り切れる時点で、身体の中にはすでに10000mを戦うための土台ができている。

そこに仕上げとして、1000m×5本のようなスピード練習を入れる。
有酸素の土台にスピードを乗せることで、10000mをただ完走するだけでなく、勝負できる走りに近づいていく。

30キロ走は、10000mのための遠回りではない。10000mを強く走るための、いちばん確かな土台づくりである。

5000mも同じ。ただし、10000mより「スピード寄り」になる。

5000mを走るためには、まず“10000mを走れる身体”が必要。

5000mは短く見える。でも実際は、かなり高い有酸素能力が必要な種目。

だから強い5000m選手ほど、「距離を踏める」「長く走れる」。

なぜか?
5000mは、最初から最後まで“かなり苦しいペース”を維持する競技だから。

その苦しさに耐えるには、
* 心肺
* 筋持久力
* エネルギー供給能力
* フォーム維持力
が必要になる。

つまり——
5000mを走るためにも、
* 15km
* 20km
* 25km
と積み上げ、「長く動き続けられる身体」を作る必要がある。

その土台があるから、5000mの速いペースでも後半落ちない。

そしてそこに、
* 1000m×5〜8
* 400mインターバル
* テンポ走
* LT走
などを入れて、″速い動き”を上乗せしていく。

イメージで言うと、
10000m=ディーゼルエンジン
5000m=スポーツカー

しかし——
スポーツカーも、エンジンが小さかったら最後まで走れない。

だから5000mでも、結局は「有酸素のデカさ」がモノを言う。

短い距離ほど、実は“土台”が必要。

世界の5000m選手が、 普通に30km走やロングジョグをやるのはそのため。
特に有名なのは、5000m・10000mの金メダリストだった Mo Farah のトレーニング。

彼の公開されている典型的な週間メニューでは、
* 週135マイル(約217km)
* 日曜に22〜27マイル(約35〜43km)のロングラン
を行っていたと紹介されている。

また、別の公開トレーニング例でも、
* 10〜12マイルのテンポ走
* 週100マイル超の走行距離
が示されている。

さらに、世界陸連(World Athletics)も、「
ロングランはエリートでも一般ランナーでも、長距離選手のトレーニングの中心」と説明。

科学的レビューでも、世界トップ長距離選手は「総走行距離の80%以上を低強度で行う」という特徴が共通していると報告されている。

つまり、
* 5000mだから短い
* 5000mだから距離はいらない
ではなく、
5000mを速く走れる選手ほど、巨大な有酸素エンジンを持っている。
その土台づくりとして、
* ロングラン
* 大きな走行距離
* 長いイージーラン
を積み上げている。

もちろん全員が「30km走」をそのままやるわけではない。
5000m専門選手なら、
* 20〜30kmのロングラン
* 90〜160km/週前後の走行距離
で組むことが多い。

そこに、
* LT
* インターバル
* レースペース
を乗せていく。

だから結局、
5000mは“スピード種目”に見えて、実はかなり“持久系”なのである。





昔の自分にとって、喜びはシンプルだった。

箱根駅伝に出る。
マラソンで2時間9分18秒を出す。
順位、タイム、結果。

努力が数字になって返ってくる。
あれは確かに最高に嬉しい。

人生をかけて追いかける価値があった。

でも、教員になって気づいた。

この世界、結果が見えにくい。

授業しても、
すぐ足が速くなるわけじゃない。
声をかけても、
次の日に人生変わるわけじゃない。

むしろ、
「届いてるのか?」
「意味あったのか?」
わからないことの方が多い。

でも、ある日突然くる。

「先生のあの話、覚えてます」
「あの時、救われました」
「ちょっと考え方変わりました」
「やってみようと思いました」

これが来た時——

マジで嬉しい。

しかも厄介なのが、
競技の結果とは違って、
どの言葉が刺さるかわからない。

熱く語った話はスベる。
適当に言った一言が刺さる。
全力授業より雑談が残る。

教育って、
種まきなんだと思う。

しかも、
いつ芽が出るかわからない。

でも、人って、
「自分も変われるかもしれない」
「目標に近づけるかもしれない」
そう思えた時に、力が湧く。

教員の仕事って、
答えを与えることじゃなくて、
その“火”をつけることなのかもしれない。

箱根駅伝を走った喜びも大きかった。
でも今は、

生徒の目が変わった瞬間。
挑戦し始めた瞬間。
自分を少し好きになれた瞬間。

そこに立ち会えた時、

競技とはまた違う、
言葉にできない喜びがある。

たぶん今の自分は、
「自分が走る人」から、
「誰かの人生を前に進める側」になったんだと思う。




人が極端なダイエットに走る理由って、実は「痩せたい」だけじゃないことが多い。

本当は――
「変わりたい」
「認められたい」
「コントロールしたい」
「不安を消したい」
こっち。

特に今の時代って、
SNSで細い人が流れてくる。
短期間で激変した動画が流れてくる。

「努力=我慢」みたいな空気もある。

すると脳はこう勘違いする。

「食べなければ変われる」
「苦しむほど価値がある」
「一気にやらなきゃ意味がない」

でも身体はそんな単純じゃない。

急激に食事を減らすと、
最初は体重が落ちる。

だから「成功した!」ってなる。

でも実際は――
・水分が抜けただけ
・筋肉が減った
・脳が飢餓モードに入った
だけのことも多い。

すると身体は防御に入る。

「この人、飢えてるぞ」
代謝を下げる
脂肪を溜め込む
食欲が暴走する

結果、
リバウンド。

しかも怖いのはここから。

リバウンドすると、
「やっぱ自分はダメだ」
って自己否定が始まる。

するとまた極端に走る。

これ、
長距離選手のオーバートレーニングとも似てる。

不安だから、
もっと走る。
焦るから、
もっと削る。

でも、
“回復”を削り始めた瞬間、
身体は壊れ始める。

骨折する選手って、
真面目な選手が多い。

ダイエットも同じ。
極端にやる人ほど、
本当は「ちゃんとしたい人」。

だから必要なのは、
根性論より、
「身体は敵じゃない」って理解。

健康って、
“緊張と緩和のバランス”なんだよな。

食べる。
動く。
休む。
眠る。

この地味な循環を続けられる人が、
結局いちばん強い。




高3の娘が、
バイトで怒鳴られて泣いて帰ってきた。

忙しい時間帯、
お客様に「時間かかりそう?」
と聞かれて、
「そうですね」と返したら、
お客様は買わずに帰った。

すると社員さんに、
「なんで帰らせたんだ!」

と怒鳴られたらしい。

で、こういう話をSNSに出すと、
始まる。

「娘が悪い」
「店側が悪い」
「接客向いてない」
「パワハラだ」
「社会なめるな」

……いや、
お前その場いたん?笑

SNSって、
ずっとこれ。

誰かの話を聞いた瞬間、
みんな裁判官になる。

でも実際は、
・店の混み具合
・社員の疲労
・娘の言い方
・お客様の空気
・その日の流れ
何も分からない。

なのに、
情報が少ないほど、
人は断定する。

しかもSNSは、
“正しい意見”より、
“強い意見”の方が伸びる。 

だからみんな、
どんどん極端になる。

昨日まで猫動画見てた人が、
今日は接客コンサル。
そのあと教育評論家。
夜には人生アドバイザー。
忙しすぎる。笑

でも現実って、
そんな白黒じゃない。

娘にも、
「言い方でもっと安心感出せた」
はあるかもしれない。

社員さんにも、
「怒鳴るより教えた方がいい」
はあるかもしれない。

つまり——
全員ちょっとずつ人間。
それだけ。 

でもSNSは、
“グレー”を嫌う。
白か黒か。
敵か味方か。
正義か悪か。
ずっと学級会。

たぶん人は、
「誰が悪いか」を決めると安心する。

でも本当に大事なのって、
犯人探しじゃなくて、 

「次どうしたらよかったか」

を考えることなんじゃないかなと思う。

最近、
本当に賢い人って、
すぐ断定する人じゃなく、

「まぁ、実際いろいろあるよね」

って言える人なんじゃないかと思う。