珍しく少しだけ洗濯物干しや洗い物をした後、息子と理容Mで散髪。Mさんと昨日の小学校の運動会の内容や今春から私がPTA会長になっていることなどについて話す。帰り際にバッティングセンターに寄って少しだけ打つ。
 
息子は球速80キロ。私は135キロ。
 
先日、姫路駅前の大塚書店で買い求めた『元治元年十二月二十六日 姫路藩 甲子(かっし)の獄』という本を読む。
 
 
 
 
この本は姫路市立朝日中学校で校長を務められ、定年後は白鷺小中学校でコミュニティースクールコーディネーターをされている飯塚敬先生の著書。ちなみに先生は若いころ増位中でも勤務され、私の学年の2つ上の学年の担任をされていました。
 
幕末の動乱、佐幕派であった姫路藩の藩主や藩士が実際にどう動いたのか。姫路藩では、尊皇派が粛清されることになりますが、その年の干支から「甲子の獄」といわれています。「甲子の獄」については、飾磨県再興請願のことを県議会本会議で取り上げる過程で少しだけ勉強したことがありますが、本書のように詳しくは知りませんでした。
 
江戸の旗本の家に生まれた酒井忠績(甲子の獄を命令した藩主)が、若き前姫路藩主の急死、跡継ぎが幼少で転封となるのを避けるために養子を探していた家老の目にとまります。一旗本がいきなり大藩、姫路藩の藩主、譜代大名となります。しかも、すぐに14代将軍徳川家茂の側近となり、老中、大老と引き上げられていきます。徳川家の御恩を感じたことでしょう。
 
そんな中、列強の対日圧力が強まり、それに応じて尊王攘夷の動きも急進的となります。幕府と朝廷の対立も戦いの火蓋が切って落とされる鳥羽・伏見の戦いがはじまる少し前の状況になっていきます。そんな時代背景の中で、姫路藩の体制を佐幕で鮮明にするために藩内の急進的な尊王派を粛清します。これが甲子の獄です。ちなみに藩主 酒井忠績は姫路にほとんど住んだことがなかったと記されています。
 
しかも、幕府を倒して新政府が樹立された後は、逆に姫路藩から佐幕派が粛清される「戊辰の獄」が起こります。姫路藩の多くの優秀な人材が数年の中で命を落としていった。そんな辛い歴史があります。本書は酒井忠績の藩主就任から「甲子の獄」までの経緯が記されています。
 
文芸社
 
神戸新聞
 
 
昼食は東洋水産のマルちゃん焼きそば3個入り×2。付属粉末ソースを使えという指示付き。