総務省の情報通信や放送を所管している情報流通行政局長が更迭された。東北新社やその子会者の幹部らが総務省幹部を接待していたことを週刊文春がスクープして以降、注目されていた。

最初の週刊誌報道を受けて、仕事の話はしていないといった参加者の弁解はあったものの、宴席の会話は録音されていたようで、文春側に翌週公開されると一転、幹部はその声が自分であることを認めた。驚いた。

接待を受けていたのは旧郵政省出身の官僚で情報通信や放送行政は専門分野。東北新社が利害関係者ではないとか霞が関でも永田町でも信じる人はゼロだったろう。接待する側も利害に関係ない人を何度も接待するほど無駄なことはない。こんなこと誰でもわかる。

核心は、菅総理の息子を通じてでないと総務省幹部らが接待を受けてなかったかどうか。受けてないだろう。私の拙い知識でも、許認可に関わる企業であって、しかも年少者の呼び掛けで省庁の幹部を何度となく接待する話など聞いたことがない。接待を受けた方だけが処分されるのかという霞が関の内部の声は通常の方法では表に出ない…。

そんな話は誰でもわかることでともかくとして、公開された録音に、衛星放送への新規参入を推進した国会議員の政務官についての話があった。

東北新社側が彼を批判するのは当然のこととして、「どっかで一敗地にまみれないと、全然勘違いのままいっちゃいますね」と更迭された局長が発言している。本人もこの声が自分であることを国会答弁で認めている。

久々に「一敗地に塗(まみ)れる」という言葉を聞いた。太平洋戦争の終戦日あたりに旧日本軍の戦線の実態を伝える戦争番組の表現としてよく聞くくらいでそんなに聞く言葉ではない。

司馬遷の『史記』(高租本紀)に見られる表現のようだ。

劉季曰、天下方擾、諸侯竝起。今置將不善、壹敗塗地。

劉季(劉邦。のちの漢の高祖)曰く「天下、方(まさ)に擾(みだ)れ、諸侯竝(なら)び起こる。今、将を置くこと善からずんば、一敗、地に塗(まみ)れん」(後略)。

秦の始皇帝の死により、天下が荒れている最中の話だ。「一敗、地に塗れる」を調べると、戦いに敗れ、内臓が地面に落ち土にまみれてしまうほどの痛手を負うという意味らしい。相応しい人を将にもってこれなければ、取り返しのつかないほど負けてしまうということ(劉邦は民から反秦の将になってほしいと要請されたものの、自分は将に相応しくないと固辞するため強い表現をとっている)。

劉邦の断り方はともかく、局長の発言は「政務官は、一度、頭を打って痛い目にあわないと駄目」ようは『生意気だ』ということだろう。酒の席で政務官くらいの若い国会議員のことを官僚が評してこうした表現をすることを別になんとも思わないが、録音されていたのでアウトということだろう。

これもともかく、より問題、いや心配だと感じているのは、新聞やテレビなど既存メディアについてだ。

権力を監視するのはメディアの役割と言われる。週刊文春の記者が何人いるのか知らない。新聞やテレビ局の記者はその100倍以上いやもっといよう。離れたここにいるからかも知れないが、この問題も全て週刊文春の情報だけで動いているように見え、他のメディアは情報源というべきものにも全くアクセスすらできていないように見える。

昨年の検察庁人事の転換の端緒となった問題もそうだった。週刊文春が権力の監視をし、現に国民の知らないような事実を明らかにしている。その存在感や凄い。しかし、一方で既存メディアのその存在感のなさ。本当にこれで大丈夫なのか。新しい問題として心配する。