兵庫県姫路護国神社。境内で開催されている牛尾啓三彫刻展(〜9/22まで)。
 






牛尾先生は「メビウスの輪」をモチーフにした石の彫刻家であり、国際的に活躍されています(兵庫県公館の中庭にも作品が展示されています)。今回は過去30年の海外での活動を記念した展覧会で14作品が展示されています。

各彫刻の下には「QRコード」があり、スマホなどで読み込むとその作品がどこの国のどのような展示会に出品されたか、他の出品作品の写真などと共にわかります。
 
また各作品の販売も可能と聞いています。会社の玄関や中庭、大きなお宅などではかなりインパクトがある石の彫刻となると思いますね。会場に牛尾先生がおられますのでそうした場合はご相談くださいね。アトリエではもう少し小さな作品もたくさんあります。







護国神社の落ち着いた環境とも相まって大変素晴らしい展示会でした。ありがとうございました。
 
先週木曜発売の週刊文春を読み、紹介すべきことがあり、書き留めていたが今日公開したい。まず、小泉政権時代に総理の政務秘書官を務めた飯島勲内閣官房参与のコラムだ。従前から毎週書かれている連載コラムだが、菅内閣に交代するから退任となるので官邸の部屋を片付けている、と書いていた(笑)。
 
それはいいとして、他の安倍政権の官邸スタッフの今後についても言及していた。菅官房長官に近い杉田官房副長官と和泉補佐官は残ってもいいと(笑)。
 
だが、安倍総理最側近の補佐官、アベノマスクを立案した秘書官、記者会見を仕切ってきた広報官、自らの北朝鮮拉致解決のための邪魔をした人は官邸から去るべきだと。実名はないが全員超有名人。最後の方は国家安全保障会議の人だろうか。一部悪意も感じられる(笑)。私の推測では、自身だけではなく件の際などに菅さん外しにも与したような人は去れと言っているのだろう。
 
実名こそ書いていないが明らかに誰のことだかわかることを堂々と週刊誌に書くのは、国会議員秘書の世界では伝説の存在と言われる飯島さんくらいだろう。国会議員ではないが、永田町のたたき上げの人だ。
 
私に色々今の永田町の話を教えてくれる人が一時よく言っていた。「飯島さんのような有名な秘書はどんどんいなくなっている。もうこれからは出ないだろう」と。
 
私が最初に議員会館に入ったころ、もう27年も前になってしまったが、何人も名前の通った秘書がいた。
 
角さんの秘書は本を出すなど有名だったし、その中にはいまでも存命の人もおり少し前に電話でお話したこともある。息子さんが私の党職員時代の先輩だった。今はある国会議員を可愛がっているとか。ご縁だ。

昔は、命をはってオヤジを守ったという話もあった。竹下元総理の秘書は命を懸けた。伝説だ。名前を知らない人はいない秘書がたくさんおられた。
 
近年は秘書という仕事に魅力がなくなっているとも聞いた。秘書も政治家と同じような影響力があったのに今はどんどんなくなっていると。
 
小泉総理は政治任用ポストとしての総理大臣政務秘書官に自らの事務所の秘書 飯島さんを充てた。
 
一方、現在の安倍総理は、事務所の秘書などではなく、経済産業省の官僚 今井さんを充てている。
 
政務秘書官は本来、政治任用ポストだ。アメリカの首席秘書官には劣るだろうが、本当の懐刀、閣僚級の力があるとさえ言われる。今井氏がその評価を過去最高に高めているのは皮肉だが…。
 
秘書の最高の出世ポストである秘書官が官僚に奪われる。しかも官僚側がポストを取りに行ったのではない。代議士の息子にとられるのは仕方ないが官僚に…。たたき上げの秘書から見ればそんなことなのかもしれない。
 
このご時世、国会議員が全てにおいて差配、指示することも増え、秘書任せや議員の知らないグレー案件がなくなってきている実情もある。
 
たたき上げでグレーゾーンも難なく処理するような秘書。時にそんな秘書は長らく務めると大物秘書と言われ、議員と変わらぬ力を持つようになる。いまそんな人のニーズ自体が減っているのかもしれない。その背景にあるのはコンプライアンスだろう。
 
そもそも安定もない、待遇も悪い、権限も裏のお金もなくなってきた、秘書という職種。公設秘書という一定の待遇が保証される人は国会議員でもたった3人。この立場でもいつ解雇されても合法。任用の立場には解雇理由は不要だ。
 
これに加えて更に厳しい境遇の私設秘書は…。上向きの話がないと嘆くのもよくわかる。たたき上げの秘書やそれを経験した国会議員は減り行くのか。
 
文春には野党新党についての記事もあった。2野党の統合への流れに棹をさした(旧慣用句ではない今の使い方)『黒幕』の存在が記されていた。産経新聞社の月刊誌『正論』に実名で寄稿していることもあり、議員ではないが実名だった。大いに驚いた。
 
何を隠そう、私の昔の上司だ。近年、私は永田町はおろか野党の情報にも疎いが、今回の合流劇の立ち回りとしてはそうだろうなと。改めて考えるとよくわかる。

私が党の参議院国対に配属されたのは1998年の参院選の時だった。局長は少し時間をおいて衆議院から事務局長として赴任された。と考えると22年前だ。
 
朝7時前に国会に出勤して新聞全紙に目を通し、国対委員長をはじめとする会派の役員が朝の会議に出る前に、必要な記事を全て切り抜き、全員分まとめてコピーしておく。これが最初の指示だった。
 
まず見本を見せて頂いた。新聞の切り抜きコピーくらい簡単と思われるかもしれないが、国会対策に必要な記事は何か、すぐにわかるものではない。同じ内容の記事があればどの社の記事を使うのか、並べ方の順番まで決まっている。しかも切り抜きは全て一人でやる。最初はよく怒られたものだ。
 
朝、一人、地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前駅で降りて、国会議事堂の中に入り、衛視室に行って会派控室の鍵をもらって部屋を開ける。冬なら真っ暗だ。
 
控室だけでなく廊下まで赤絨毯という国会議事堂の中、厚みがあり、時に新雪のようにさくっと幾分気持ち悪い絨毯の上を暗い朝のスタート。しかも他の政党職員の誰よりも早く出勤しないと間に合わない。
 
新聞を切り抜いてしまうと裏があるからまずコピーしてから切り抜いて貼り付けるという作業…。最初にめくる新聞はなぜか日経新聞だった。政治面は少ないが、中立で重要な話しか載せていないからだ。
 
9時10分から国会対策委員会なので、8時半頃にはコピー前までの作業を終わらせておかないといけない(いま兵庫県議会の切り抜きは夕方前にはくるかな)。早朝出勤の手当なんてもちろんない(笑)。
 
国会の与野党の国対委員長会談など重要な政治的会議や予算委員会の理事懇談会などの内部の重要な会議には部屋の中に議員秘書は一切入れない。更に、与野党の交渉の話になると国会職員も入れない。皆さん壁耳(カベミミ、控室の外側の壁に耳をつけて中の話を聞こうとする)をしていた。いずれの会にも中に入ってメモできるのは政党職員だけだ。そうした会議の報告などを続けることによってだんだん慣れてきた。
 
局長は会議で決定したことや経緯を、出席していない国会議員や秘書たちにも伝えないといけない、と『国会対策委員会ニュース』を発行され、当時はワープロで打って議員事務所にFAXしていた。
 
国会の決定に関わるのは国対役員などにごく限られ、若い期数の議員はまず国会の見通しなどはわからないし、本会議の日程の見通しがわからなければ予定も立てられない。そんなことがないように同じ文書で同じタイミングで会派議員にニュースとして説明されていたのである。

当時は他になかった。会派の参院議員だけにFAXしていたが、衆院議員の事務所からもそのニュースがほしいという声があがっていた。参院から内緒で衆議院側の事務所に転送している秘書がいるとも聞いた。
 
会期末の国対のある朝に私が一度だけ寝坊したことがある(局長と前の晩、日本酒を飲みすぎた)。いまでも痛恨の極みだが、遅れて出勤すると、局長が代わりに新聞の切り抜きを作っておられた。いまでも昨日のことのように懐かしい…。
 
衆議院の国会に参院国対委員長について行き、メモをしてこい。予算委員会の理事懇談会に陪席してこい。議員立法の提出、本会議質問のチェック、内閣への通告。国会が緊迫し会期末などで与野党が揉めた時には、内閣総理大臣の問責決議、参院議長らの不信任決議案などをつくれと。会期中は何があるかわからないから夜の予定は入れるな。ただし、閉会中は思い切り休め!多くの国会のいろはを教えて頂いた。
 
あわせて産経新聞の月刊誌「正論」への寄稿も読ませて頂いた。現在の国会対策についての意見をみるに、変わらず筋を通されているようだ。私が離党して以降、参院の控室の扉を叩くのは憚られるためお会いしていない。またいつか話を聞きに行かなければと思う。


昼食は亀井町のボルカノでワタリガニのパスタ。