今日は朝7時半集合で、住んでいる砥堀校区の歩こう会。そうめん滝を経由して増位山随願寺に登る。

以下、写真とそのコメントで時系列で振り返ります。

集合スタート地点【砥堀小】

1873年(明治6年)  神崎郡砥堀村時代に桃李小学校として開校。主な卒業生に哲学者の和辻哲郎、歴史学者で貴族院議員の三上参次。いずれも東京帝国大学教授。

受付。300人を超える参加者と。

スポーツクラブ21の駒田理事長の挨拶

永井連合自治会長

ラジオ体操

出発!

私も最後尾から出発!

【蛍橋(ほたるばし)】

姫路市のキャンプ場があるそうめん滝から流れる砥堀川は平野部で流れを北上させ仁豊野から流れる大谷川と合流し、国道312号線にかかる蛍橋の下を通って市川へと流れる。欄干に昭和11年(1936年)架橋との文字が見える。

国道312号線拡幅予定地

【歩道橋】

砥堀第ニ、砥堀第一歩道橋を渡る。いずれも兵庫県の歩道橋。兵庫県道路公社の播但連絡道砥堀ランプ入口と国道312号線にかかっている。主に砥堀小学校の通学路として活用されている。

【JR播但線 北川踏切】
播但線砥堀駅と仁豊野駅の中間あたりにある踏切。私が砥堀小在学中、ここでブロックを線路の上に置くいたずらをしていた悪童をみつけ、ぶち回したことを思い出す。あのまま置いてても脱線はしてなかったと思うが…。

【道標】
右「ますゐ ひろみね ちかみち」
左「新四國八十八箇所霊場」

前者は確かに直線距離だが、かなりの山道だ(笑)。
後者は、四国の弘法大師にちなんだ八十八カ所の四国霊場めぐりが、江戸時代に入り、庶民の間に広まったらしく、「新四国八十八カ所」と称して、各地に霊場が設定されていったという。その一つだろう。

参考-播磨四国八十八ケ所霊場の冊子作成 大通寺の住職(神戸新聞)

交通危険箇所の警備は消防団の皆さん


【砂防竣工記念碑】
書は若いころ砥堀小学校で教鞭をとったこともある三上参次先生による。

そうめん滝

【矢穴石】
説明は下の看板で。この石の上に松が自生しているもの。




【東南寺】

そうめん滝ハイキングコース

砂防ダム。一部浚渫予定。


ここから登山道へ









【砥堀古墳】(古墳展望台)


墳丘(盛り土)がないので方墳(四角形)か円墳かわからないが、横穴式石室であることから比較的新しい古墳である。石が全てむき出しなので、蘇我馬子の石舞台古墳のミニミニサイズみたい(笑)。他の石との絶妙なバランスで天井石が載っているが、これまでの地震でも落ちなかったのが不思議。

増位山古墳群と混同しているHPもあるが間違いで、これは独立した砥堀古墳。

この近くに有明山構居跡がある。現在、説明の案内板が撤去されている(参考までに過去の案内板の写真をアップしておく)。

【展望台】

南を望む。小さいが姫路城も見える(中央緑地帯右)。

北東方面

旧くは有明、弥高山、現在では増位山の展望台。南には姫路城から播磨灘や家島、東には飾東町、北東には豊富町や香寺町を望む。昔に比べて背の高い木が生えていて眺望は今一。

【展望台の歌碑①】
『はりまなる 糸の細道 わけ行ば とおりに見ゆる 有明けのそら
業平』

これは奈良時代の歌人 在原業平がここで詠んだとされる歌。『播磨鑑』に収録されているものだが、現在、広く知られているものとは少し違う。

一般的には「播州増位山随願寺集記」にある、貞観17年(875年)の随願寺の山王祭礼の時、勅旨として来たときに詠んだとされる下記の歌の方が有名。

「播磨路や糸の細道わけゆけば
 砥堀に見ゆる有明の月」

この石碑から東の「糸の細道」の地元の砥堀一区の石碑にも後者が採用されている。

【展望台の歌碑②】
『天照らす 神さへここに 有明の 月もさへぬる 秋の夜のそら
西行法師』

こちらも上記同様で、「播州増位山随願寺集記」では、西行法師が建久4年(1193年)に詠んだ和歌として『天照らす 神さへここに 有明の 月もさやけき 秋の夜のそら』になっている。当時の事実はわからないが、いずれも後者の方が韻も含めて現代では聞こえが良い。

姫路市教育委員会文化財課(平成22年3月1日発行)『文学碑』をたずねて その4

【墓所】

随願寺敷地に入るとまず姫路城主 榊原政邦と夫人の墓所がある。徳川四天王の一人 榊原康政の子孫である榊原家は、江戸時代の初期と中期の二度姫路城主となっている。

正邦は二度目の方の城主であり、1704年に越後村上藩から転封となった。自ら撰した和歌集をつくるなど文化的な側面のほか、男山八幡宮の社殿を寄進するなど寺社仏閣にも帰依していたと伝えられる。


お城からの手紙「榊原のお殿様」

姫路藩に転封される前の越後村上藩主時代の榊原正邦の手紙

【増位山梅林】


増位山は梅林で有名だが、10月とはいえ、この無残な姿。野生の鹿に実や葉が食べられてしまって、新芽の部分に籠をかぶせているとあとで随願寺住職から苦情をきく。近年、特に酷いという。

【随願寺到着】
本堂




経堂


鐘楼

本堂内

随願寺の本堂内で加藤哲崇住職から話を聴く。初めは本堂前でという話だったが、本堂内の方が良いのではとの私の意見を聞いてもらった。

7世紀前半、蘇我馬子らによる仏教導入論が勝利したあと、厩戸皇子(聖徳太子)が高麗の僧・慧便(えべん)に建てさせたのが随願寺。当初はこの山の上ではなかった(伊伝居)と。のちに天皇の命を受けて行基が来て、現在の増位山の地で中興した。最初は法相宗だったが、後に天台宗となった。

戦国時代(1573年)には、三木城主の別所長治に攻められ、本堂など全てを焼失した。当時、黒田官兵衛の父 黒田職隆(もとたか)の弟 黒田高友も「休無」(休夢)と名乗って随願寺にいたが、現在の景福寺あたりに逃げた。

その後、別所長治が播磨に侵攻した織田方の羽柴秀吉に滅ぼされ、秀吉が寺を再興。後に、現在の姫路城をつくった池田輝政が本格的に再建した。

その後、江戸時代になり、黒田官兵衛の息子 長政の娘 徳姫を正室にしていた譜代大名 榊原忠次が姫路に転封となり、菩提寺にと遺言した。随願寺と黒田家の関係や姫路城の鬼門の方角にあることがその理由ではないか。

現在の本堂はその忠次の建立によるもの。本殿の隣に忠次の大きな墓所がある。

本尊の薬師如来座像は兵庫県指定文化財、脇の木造毘沙門天立像は国指定の重要文化財。本尊は毎年2月11日の鬼追いの際に公開しているのでお越しあれ。

ほかには、本堂、経蔵、開山堂などが国指定重要文化財に指定された。神戸大学の教授が指定前の調査をされた。指定のなかった建物を修復するとなると3億円もかかるということなので今も手がつけられていない。あの時、他も指定して下さいとお願いしておけば良かった(笑)。

【昼食】
まねき食品さんのお弁当が配られる。連合自治会の役員や小学校長・教頭らと加藤住職を囲んで昼食とのことで随願寺会館の食堂に行く。何故かカレーのにおい(笑)。お寺に他の客人が来られるとのことで、"肉なしカレー"が煮込まれていた。

竹内「いいにおいですね。図々しいんですけど、カレーだけ少しお弁当に掛けてもらっていいですか?」
旧知の住職奥様「いやいや別の器に入れますよ。カレーだけでいいんですか?」
竹内「はい。ありがとうございます」

肉が入っていない精進カレー。肉の代わりは厚揚げ。初めて食べました。スパイスはクミンやガラムマサラは入っているとのこと。凄い。ごちそうさまでした。

番外【猪・鹿の被害状況の確認】




猪の被害。梅林の鹿被害の話も合わせて伺う。

【復路】
やはり下りの方が楽。自然観察などをしながら下山。


小学校の体育館まで戻り、大抽選会。私の参加者カードを息子に渡していたが、バドミントンのラケットセットが当たった。運が良い。

[感想]
片道1時間半くらいの山登り行程。帰宅したら15時前でした。普段、運動は全くしていませんが、5歳児の甥でもなんとか登って頑張れる距離だったので、流石に大人の私では大丈夫でしたね(笑)。最後尾のスタートから途中で先頭に追いつきました。

[御礼]
歩こう会のスタッフを務められたスポーツクラブ21の役員の皆さんはじめ、警備に当たった消防団、自治会や各種団体の役員の皆さん、お疲れ様でした!!