姫路市市之郷のイベントゾーン。雲ひとつない晴天のもと、県立はりま姫路総合医療センター(仮称)の工事の安全祈願祭並びに起工式がI知事はじめ多くの関係者の出席のもと開催される。
 
 
当センターの救急医療の充実が私の今任期の第一に掲げた公約。建設はもとより最大の懸案である医師確保に向けた県病院局の取り組みを最大限支援していきます。
 
パース模型
 
 
総合医療センターは2022年度上期に開院予定ですが、隣接する「姫路市コンベンションホール」は既に工事が進んでおり、2021年秋オープンだそうです。
 
会場。テントということで暑いのかと思ったらクーラーがよく効いていました。
 
その後、相談者のところへ。私に手に負える案件ではなく弁護士を紹介させてもらった。
 
その後、H日航姫路。播磨政経懇話会の例会。
 
今日の講師は今年1月に小説『ニムロッド』で芥川賞を受賞した作家の上田岳弘(たかひろ)さん。演題は「二つ領域をまたいで。自由と制約を楽しむ。」
 
1979年明石市生まれの40歳。私より5歳若い。今日は何を語られるんだろうと、久し振りにスマホではなく、ボールペンを片手にメモメモ!メモした文書は忘れてここにいんですが、頭で復元します(笑)
 
【講演メモ・意訳 文責:竹内】私が生まれ育ったのは明石だが、両親の親、つまり4人の祖父母は淡路島に住んでいた。両親は淡路島から明石に出てきた。中学時代に阪神・淡路大震災に遭遇。まだ健在だった淡路の4人の祖父母は命に別状はなかったが、母方の家は被災し一部倒壊した。中2のとき、姉が勤めていた会社から借りてきていた(神戸出身の)村上春樹さんの『ノルウェイの森』を読んだ。(若い人には刺激のある内容で)隠れて読んだことをおぼえている。
 
入学した高校は総合選抜の県立明石西高で学校の偏差値は50くらいだった(当時の明石学区の高校入試は生徒の偏差値が各校同じ50くらいになるように合格者を調整する総合選抜方式。現在は廃止)。高校時代の当初は理系の大学を目指していたが、理系の成績が中くらいで途中で文転(文系クラスに転向)した。その後の大学在学中(早大法学部)は学校にあまり通わず、麻雀、飲み会、バイトに明け暮れる典型的な当時の私大生だった(笑)。
 
作家を目指したのは、4人兄弟の末っ子で、両親、姉ら5人が(自分がまだ文字が読めない)幼少の頃に皆が読書をしている姿をみて、自分はひねくれていたので、書く方になってやろうと思った、と記憶している。末っ子って、服も上のお下がり、写真も少ない、良い思いがない。
 
5歳のときの保育園の卒業文集に「本屋さんになりたい」と書いたことを覚えている。理由も書いたのだが、「エッチな本が読み放題だから」とマセガキだった(笑)。しかし、実際は小説家と書きたかったが、幼心にそう書くのは恥ずかしかったからだと記憶している。いま娘は3歳だが、2年後そんなこと考えるかな(笑)。
 
学生時代、バイトに明け暮れたと言ったが、4年で卒業できず、5年で卒業した。在学中に一度だけ小説を書いて文芸誌の新人賞に応募した。それが最終選考まで残った。結果的にはそれがこの世界を諦めなかった理由。良かったのか悪かったのか。
 
卒業後、バイトで貯めた貯金があったので、就職せずに、2、3の小説を書いて応募したが駄目だった。ただ、その頃は、古本屋に通って、夏目漱石、ドストエフスキー、シェークスピアらの小説を読み耽り、年間200~300冊も読んだ。
 
そんな頃に、学生時代、営業のバイトを一緒にしていた東大生の友人から電話があった。「上田、起業するから一緒にやらないか?」と。当時、発行されていたビーイングという求人雑誌を買って、髪を黒く染め直して、仕事を探そうという頃だったので、いいよと。
 
会社は2004年7月の設立。最初の7~8年は毎日終電まで働いた。途中、倒産かという危機も3回くらいあったが、何とか乗り越えた。実はいまもその会社で働いている(IT企業役員)。
 
会社と小説を書くことはは両立した(出勤前に小説を書く)。そうしているうちに三島由紀夫賞をとった。三島由紀夫賞は文芸界の新人にとって登竜門のような有名な新潮社の賞で、お笑い芸人ピースの又吉くんも候補に上がっていたため、発表にマスコミが80社も来るなど大きく取り上げられた。
 
新潮のような文芸誌だけでなく、同時にYahooで同じ小説を発表するなど、新しい取り組みをしてきた。新聞にあり、ネットになかった新聞小説という取り組み。文芸誌の場合、作家・担当編集者・編集長の3名が基本的に作品に深くかかわるが、Yahooではスタッフ全てあわせると28人にもなり、別の視点での指摘も多かった。また、月刊の文芸誌は部数1万部ほどで、どうみても、のべ100万人に読まれることはないが、Yahooは1ヶ月で700億ページビューにもなる。しかも異なる読者層。いまでもYahooには原稿が残っているので読みたい方はどうぞ。
 
今年は芥川賞をとった。芥川賞をとると、周囲から会社を辞めないんですかと聞かれるが、今の会社を辞めることはあっても、何らかの他の仕事はすると思う。会社の業務は刺激がある。いろいろ回り道して、バイトとかの経験もいま役に立っている。文学側とビジネス側がリンクできていないと感じる。交差点のように2つの世界の橋渡しをしたい。世界では既にこうした作家が増えていると聞く。
 
姫路と言えば、初めて来たのは小学校の遠足。姫路城に行って、先生から「姫路城の模型があるが、それを壊すと学校が一億円弁償しないといけない」と言われて驚いた記憶がある(笑)。また、姉が結婚して一時期姫路に住んでいたので来たこともある。さきほど姫路の北側にお城がよく見える展望室ができたと聞いた。今日はそこに寄ってから帰りたい(笑)。
 
※私が少し中座した時間があるため、講演内容は抜けている部分があります。
 
 
 
質疑応答
 
その後、関係各所を訪問。途中、車のガソリンがなくなりかける。ギリギリまで入れないのだが諦める。その後、理容Mで散髪。その後、事務所。その後、作業。途中で切り上げて子どもの習い事の送り迎え。待っている間に講演録まとめ。その後、夜に突如予期せぬ問題発生。一定の解決まで5時間。疲れた。