羽田孜元総理大臣(82)が亡くなられたとの報道。引退されてからは体調もあまり芳しくなかったようで表舞台への登場はあまり見られなかったが、昨日、東京の自宅で老衰のため亡くなられたという。
自民党在籍時代は竹下派七奉行の一人として活躍されていたが、宮澤内閣が小選挙区制導入を中心とした政治改革に及び腰だったために、奥田敬和代議士、小沢一郎代議士らとともに1993年、宮澤内閣不信任決議案に賛成して自民党を飛び出し、新生党を結成された。私が奥田事務所に入ったのはちょうどこの頃、自民党を出る少し前だった。
不信任案の可決を受けて行われた衆院解散総選挙の結果、非自民の細川内閣が成立した際には、副総理兼外務大臣として入閣。細川内閣の総辞職後は、首班指名を受け、羽田内閣を成立させた。
一方、羽田内閣は社会党の連立離脱により少数での国会運営となり、1994年予算の成立後に不信任案が提出され、自民・社会両党の賛成で可決される見込みとなり解散を行わず総辞職。自社さによる村山政権が誕生した。55年体制では考えられない政権の枠組みであった。当時は解散を声高に言う人も少なかったと記憶しているが、あの時解散していればどうなっていただろうか。結果として羽田内閣は64日間と戦後最短の内閣となった。
細川・羽田両内閣で国会の要・衆議院議運委員長を務め、支えたのが奥田先生だった。羽田先生とは同じく七奉行で当選も同期だったが年齢は奥田先生が上で兄貴分だったと思う(その後、新進党・太陽党・民政党・民主党と最後まで袂を分かつことがなかった)。
このころ緊迫する国会で慌てた与党理事らから議員会館の事務所に奥田先生あてによく電話がかかってきたことを覚えている。緊急時の用に当時まだ高嶺の花だった携帯電話を私が持たされたこともあると記憶している。
私の忘れられない羽田総理との思い出は、衆議院第二議員会館の地下の理髪店で散髪していたとき、平日の午後で客は私一人だったのだが(ちょうど顔剃の途中だったと記憶している)、羽田総理本人が入ってこられ、散髪をされたことだ(会館の理髪店は特別なところではなく通常3千円。ここで散髪する議員が昔は結構いた)。それが、同行のSPに外で休んでおくよう指示をされて理髪店内はお店の人2人と私と総理だけになったことである。もちろん散髪は総理が優先となり30分もかからないうちに終わって出て行かれた。こんなことはもう一生ないことだろうと思った。
もうひとつは、新生党学生塾の懇親会に顔を出されて、一緒に居酒屋のテーブルを囲んだ時に、なぜか焼酎の飲み方を教えて下さったこと。焼酎を入れて、水で割って、縦切りにした『キュウリ』をさして飲むと美味しいんだと。お店の人にきゅうりをもってきてもらってつくってもらった。とはいえ、きゅうりが大の苦手な私は覚悟を決めても飲めなかった…。