政務活動費にかかる件の元県議の初公判に関する報道を見る。新聞やテレビなどの一般メディアでは、起訴内容を否認したことをはじめ、記憶がないを何十回も連発したとか、味方である弁護側の質問にもとぼけた答弁をしたとか、記憶障害があるとの医師の診断の話を出したとの話が出ていたほか、一部に容姿や態度に関するものもあった。

罪状認否にかかわらず不正支出分は本人も認めて既に返済していることから、本人の主張に関わらず、あとは裁判官がどう量刑を判断するかだ。

この問題は兵庫県議会に対する空前絶後の不信を招き、結果として制度は性悪説に立った厳しいものに改められたが、こうした不正を許してきたルールを漫然と見逃してきたのだから責任は我々にもある。だからこそ、この間、住民の皆さんから直接間接に厳しいご批判を頂いてきた。いまもなお信頼は回復していない。

テレビで彼の映像が出てきたら、どこに行っても我々には強い反響がある。この数日特に強い。今の反響の多くは批判というより彼が笑いの対象となっていることだ。

そんな中、いつか言及しなければならないとずっと思ってきたことを今日は敢えて指摘したい。まず、フリーランス、ライターの秋山謙一郎さんの記事を紹介したい(下記リンク)。

衝撃の初公判! 野々村被告の「責任能力」を問えるのか? 傍聴人には疑問視する声も(dot)


「裁判を傍聴した記者、傍聴人ともに、野々村被告をみると、どうも責任能力が本当にあるのかどうか疑わしい節がある。勾留によって責任能力の有無について、再度、鑑定を行ったほうがいい」(週刊誌記者)
「号泣会見でもみせた、“ののちゃんポーズ”でしたっけ? あの時も手を右耳に当てていましたよね。もしかすると、耳が聞こえにくいのかもしれません。午後は今にも泣き出しそうな様子で、被告本人が記憶障害に言及する場面もありました。本当に野々村被告が責任能力があるのか、とても気になりました」(傍聴した30代兵庫県在住の男性)

 口の悪い傍聴人のなかには、「キレ芸破裂せず」「もうすぐ号泣」と茶化す人もいたが、多くは「本当に野々村被告に責任能力があるのか」という点に関心が向いたようだ。

「投票した者の責任を感じて、初めて裁判を傍聴に来ました。最初は、“西宮の恥”“兵庫県の汚点”という意識があったのですが、今日の公判をみて、われわれ有権者にも責任があったかと考えを改めました。どうも本当に責任能力があるのかどうか疑わしい。このまま彼に刑事責任を取らせることが本当にいいことかどうか」(野々村被告が県議時代に選挙区だった西宮市の30代男性)以上上記より抜粋。

実は私、この元県議とは3年半、議会棟の同じフロアに控室があった。とはいえ、すれ違うことはあっても一言も会話をかわしたこともなければ名刺交換すらしたことがない。本会議での初質問内容や関わった人から聞く評判、県職員への異常な高圧的態度もさることながら、私の肌感覚がそう選択させた。私は、上記の秋山さんが取り上げた声や意見が『直接』彼を見た人が素直に感じるものではないかと思っている。

もう一人、直接傍聴した法廷画家の榎本さんという方もツイッターで発信した内容がネットニュースになっていた(下記リンク)。

新型「聞こえません」ポーズ披露などと報道 野々村被告の行き過ぎた「お笑い化」は人権問題だ、との指摘が

『初公判は2016年1月26日、神戸地裁で開かれた。開廷から閉廷までの大部分を見ていた榎本さんは、翌日27日にツイートを連投し、公判中の野々村被告の様子をレポートした。
榎本さん曰く「発言、表情、挙動、主張内容、声のトーンまですべて異様」であり、「これは病気の人だな」との印象を持ったという。被告が病人だと断定しているわけではなく、あくまで個人の感想としつつ、「ふざけていたり、異常なフリをした演技などでは無いと感じました」と振り返る~』

私の感覚と同じ。直接かかわるとこう感じる人が多いと思うが、誰も守ろうとしないのはなぜか。それは彼の対人関係の攻撃性だろう
。かかわった職員に聞くと大声で恫喝されたとか、同じ県議ともつかみ合いの喧嘩をしようとしたこともあった。弁護関係者からもそうした話を聞く。それでは誰も守ってくれない。それもいま始まったことではないだろう。起訴にあたり取り調べをしてきた検察も直接対応したのだから、わかっていると思う。それでもなお強硬な対応をしたのは、そんな理由だろう。客観的ではなく、直接相対して接してしまうと怒りが発生するのだと思う。

今回の事件自体は無罪や減刑となる刑法上の心神喪失又は心神耗弱には当たらないだろう。しかし、量刑を決定する際や報道する際には、医学的観点も必要となる案件だという気がしてならない。見世物的に面白おかしくとりあげるのは人権的な観点から問題があると思っている。

選挙で選ばれた公選職とはいえ、他の選挙での泡沫的得票状況から維新という政党に所属しているものと間違って投票され当選しただけだろう。縁もゆかりもない西宮で選ばれた、つまり『風』だけで選ばれたことは会見で自ら認めていた。

公選職でなければ、また平時を知っていれば、あの会見での奇行をテレビで放映することは自主規制された可能性すらあると思っている。だから人権意識の高いと認識していたイギリスのBBCが流したと聞いた時は驚いた。

直接見たり聞いたりした人は国民の極々一部。政務活動費の適正化の問題とは全く別の観点で、この間、報道のあり方などについて色々思うところがずっとあった。この際、吐露させてもらった。少数ではあってもそうした見方をしている人がいること、そうした意見がネットメディアではあるが実名で表明されていることを確認し、少しホッとした。

もちろん、彼の罪は返済したから許されるものではないと思うし、地方議員の評価を著しく低下させ、ただでさえ成り手不足なのに更に拍車をかけ、質を下げることになったことは万死に値すると思っている。その点で、かばうつもりは全く無い。

ただ、報じ方に一考あってしかるべきだという思いだ。裁判で直接見た報道陣の中にも上記で指摘したような感覚になった人は実は多いと思う。今回は事前に報道の枠がとってあったので、スポーツ紙やテレビのワイドショーなどでは大きく面白おかしく取り上げざるを得なかったのだと思う。次回以降の裁判の取り上げ方は変わると思っている。それが健全な社会だ。そう願っている。